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ラズーン 4  作者: segakiyui
8.使者
64/89

5

 『太皇スーグ』はミダス公の屋敷に置き去りにしてきた『聖なる輪』(リーソン)の代わりに、新しい『聖なる輪』(リーソン)を授けてくれた。

 そしてユーノは、幾日分かの水と食糧を手に、『狩人の山』(オムニド)へ踏み込んだのだった。

(後、5日)

 目を開き、左手首に通した銀の輪を見つめる。残った輪は後2本と半分、後は全て鈍い茶色に変色してしまっている。

「ふ…」

 きゅ、と唇を引き締め、雪の中に埋まり込んだ脚をゆっくりと引き抜き、前進を再開する。『聖なる輪』(リーソン)のおかげで少しは体力を保持できるものの、体の奥底には濁った疲れがたまっていて、一歩進むたびに、体の中をあちらへこちらへと流れていく。

 数歩進んだだけで、額には汗が滲み、呼吸は荒くなり、白い息が視界を漂った。

(よくこんな所を、アシャは行ったな)

 行けども行けども変わらぬ景色は、想像以上に人の心を摩耗させる。体の疲弊と相まって、それが再び気怠い放心状態を作り出す。

 脚を引き抜く。引っ掛かる。数回動かして少しずつ抜き、ほんの僅か離れた積雪の上に降ろす。脚はすぐにずぶりと頼りなく沈んで、少しも浅くならない雪原を思い知らせる。

(進んだ気がしない……それでか、あんな夢を見たのは)

 自分が見る夢は、いつも切ない夢ばかりだ、と思う。

 幼い頃からそうだった。痛みと疲労に気を失うように眠り込んでみる夢は、どれもこれも心を切なく絞り上げる。

 精一杯伸ばすのに届かない手、走っても走っても追いつかない後ろ姿、救いを求めて見回した周囲には闇色の空間、そこに潜むのはいつも、隙あらばユーノの心を喰い散らかそうとする魔の気配だけ。

 悲鳴を上げて飛び起きてみれば、誰もいない冷えきった部屋、人恋しさに枕を抱いて皇宮の中を彷徨えば、母はいない、父もいない。ああ、確か今日は夜通しの宴だったと思い出してレアナを探せば、ベッドで心地良さそうに熟睡している姿…。

 姉…。

 呼びかけかけて、響いた声の大きさにどきりとして口を噤み、起こしてしまったのかと相手を覗き込み……そのまま、声もかけられず、立ち去ることもできず、薄い夜着で震えながら、その場にずっと立ち竦んでいた。

(魂の強さを悔やむまい、心の雄々しさを哀しむまい……あれは、何の唄だったかな)

 自分のことを歌ったようだと思って、きっとこういうことは、誰にでもあることなのだ、自分だけのことではないのだと言い聞かせて。

 それでも時折、切なさは嵐のように心を襲って、一人立つ決意を滲ませる。

「ふぅ………っ!」

 額の汗を拭って立ち止まったユーノは、ふいに突き刺さるような殺気を感じて振り返った。同時に、眼前にふわりと音もなく舞い降りた銀青色の影が広がる。

「っっ!!」

 とっさに雪に呑まれた体を投げ出し、かろうじて金の爪を避けたものの、左腕を軽く擦られ顔を歪めて雪上に転がる。右手で腰の剣を引き抜き、体勢を整えて身構えるや否や、軽々とユーノを飛び越えた銀青色の獣は、深い雪の中、まるで体重がないように空中で体を捻り、相対して舞い降りた。冷ややかに細めた瞳は、宝石のような金と青の色違い、長い尻尾をゆっくりくねらせてユーノを正視している。

(飛びかかってくるまで、気配がなかった)

 唾を呑んで、剣の柄を両手で支える。空気がぴりぴりと痛い。寒さよりも数段鋭い、殺意の刃だ。

(聖なる山の道案内、シズミィ)

 その名は昔語りの中に生き、夜に語り継がれる多くの古老の話の中でも、一際異彩を放っている。

 獲物の生き血を啜り、死を願い生を危うくすることを至上の使命とする天性の殺し屋。雪の夜には血を求め、風に紛れて人里を襲うという話も、ラズーンの中で何度も耳にした。

(敵にするには無謀なほど厄介な相手)

 冷たい心の持ち主である『泉の狩人』(オーミノ)は、この獣の美しさと凶暴さを愛で、選んだ客のためにのみ、シズミィを迎えに放つ。だが、シズミィは単に『泉の狩人』(オーミノ)への道案内であるだけではなく、客の力量を試す役割も与えられていると聞く。

 風はいつしか止んでいた。

 静まり返り、生き物の気配さえない『狩人の山』(オムニド)で、睨み合ったユーノとシズミィの周囲では、時間さえも止まってしまったかのようだ。

「……」

 どれほどの時間がたったのだろう。

 シズミィは周囲に溶け込むような淡い銀色の体に、僅かな朱みを加えた。沈んだ銀青色の水盤に張った水に、一滴二滴鮮血を滴らせるように、淡い桜色に身を染めていく。

 ゆっくり、一歩、前足を雪の上に置いて体重を移した。

 続いてもう一歩、ユーノの方へ身を進める。

 完全に体重を消しているのか、その足跡は、ユーノがふくらはぎまで埋まっている雪上に、花弁が舞い落ちたほどの深さでしか残らない。

 緊張感に身を引き締め、剣を握りしめるユーノの掌には、いつしかじっとりと粘りつくような汗が滲んで来ていた。

(アシャで五分五分……私なら……もって四分六……まずくすれば七分三分…)

 シズミィが低く身を伏せた。渾身の力を体に溜める。

 ユーノも息を吐いて剣を構え、目を細める。

 空気がきりきりと捻り上がった。


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