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「、ふっ…」
詰めていた息を吐いて、ユーノはぼんやり眼を開けた。
冷えきった額の『聖なる輪』(リーソン)がきつく締めつけてきて我に返ったらしい。ぶるっ、と小動物のように頭を振って、ユーノは辺りを見回し、どこに居るのか思い出した。
周囲は雪、さらさらと風に舞い散る雪の斜面で、雪溜まりに脚を突っ込んで体勢を崩し、そのまま転げ落ちてしばらく眠り込んでしまっていたらしい。
(『狩人の山』(オムニド)…)
ユーノは凍てついた四肢をのろのろと引き抜こうとした。チュニックも羽織っていたマントも既にびしょぬれになっている。怪我はしていなくとも、このままぼやぼやしていれば、凍死するのは目に見えている。
「……」
ユーノはそっと『聖なる輪』(リーソン)に指を触れた。吹きつけてくる風に目を閉じ、意識を遮断する。心を指先に集めて、『聖なる輪』(リーソン)の中へと循環させる。
風の冷たさを感じなくなってくるのと入れ代わりに、脳裏には2日前の出来事が甦ってきていた。
「『狩人の山』(オムニド)へ?」
『太皇』は一瞬、自分の耳を疑うように玉座から身を乗り出した。
『氷の双宮』は以前と変わらず静まり返り、『太皇』の声の隅々の音色を反響させる、疑いと不安と、密やかな感嘆を。
「はい」
玉座の前に片膝を突いて礼をとったユーノは、じっと床の上を見つめながら低く応えた。
「アシャの代わりに向かうというのか」
「はい」
「そなた1人で」
「はい」
同じように、幾人もがここで、決意を確かめられただろう。
それら先人の意志と同じぐらい、自分の心が強固に練り上げられていると伝わるといい。
ユーノの淡々とした声に、『太皇』は重い溜め息をついた。
「……『泉の狩人』(オーミノ)のことは知っているのであろうな」
「はい」
熟知しているわけではない。
けれど、踏み込む。
その先にあるものを手に入れるためには、こんなところで怯んじゃ駄目だ。
「彼らは荒廃の世に生を受け、時の『神』の命に寄って、我らに力を貸しはした。だが、元々は我らにも『運命』にも属さぬことを誇りとする一族、わしの願いを聞くのも、神の命じた『太皇』に敬意を払ってのこと、わし個人に向けられた忠誠ではない」
時を越えて生き抜いてきた老人の声は、憂いに満ちて呟いた。
「アシャが彼らへの使者を務め得たことさえ法外なことなのだ。その『泉の狩人』(オーミノ)の所へ、1人で、しかも使者を成り代わって行こうというのか?」
「はい」
ユーノは、弾けば響く立風琴のように、軽々と応じた。
「わかっています。使者とはいえ、『泉の狩人』(オーミノ)に気に入られなければ岩とかげよりも易々と屠られることも、道案内とされるシズミィのことも、人の生を呑み込む聖なる『狩人の山』(オムニド)の恐ろしさも」
まばたきする一瞬だけことばを止め、
「けれども、私以外に、誰が今、動けますか?」
相手の喉元に切っ先を突きつけるような声だと感じた。
しばらく沈黙が続く。
応えあぐねているというよりは、冷静に現実を見極めている『太皇』の気配に、少し安堵する。
「身勝手をお許し下さい、『太皇』。せっかく『聖なる輪』(リーソン)を頂きながら、命を投げ捨てるようなことをする私をお許し下さい。そして、私が無事に帰った暁には」
故郷を出る時には、統合府ラズーンの長を相手に、こんな交渉を持ちかけるような状況など想像もしていなかった。それは天に向かって槍を投げるようなもの、風に抗して矢を放つようなもの、凄まじい力に打ち倒されて我が身を滅ぼす類の暴挙のはずだった。
だが、今のユーノは対等ではないにせよ、『太皇』の抱える傷みを知り、ラズーンの裡深く彫り込まれた約定を理解している。それに対して果たすべき責務を僅かでも背負い、それらを呑み込んだ上の自分の願いも自覚している。
セレドを発った時の、隣国の侵略からただただ自分の国や家族を守りたいだけの感覚を越え、もっと大きな仕組みの中でどうやって生き延びていくか、どうすれば自分のささやかな願い、愛しい人に幸福に笑っていて欲しいという祈りを叶えることができるかを考え始めている。
巨大な歴史の歯車の中で、踏み潰されていくしかないこの命でも、何ができるのか、何を望むのか、それを思うとき、ユーノの胸の中には、あの『氷の双宮』を保とうとした人物の覚悟が沁み渡る。
この小さな手は、何も救い得ないのかも知れない。
けれど、けれど。
幻のような命であっても、なお。
最後のときには満足したいじゃないか、なあ。
何かを成し遂げたという満足じゃない。
いつでも逃げられた、安全圏に引っ込めた、けれど、振り返ったその先に、小さな子どもが泣いていた、だから駆け戻って地割れに呑み込まれてしまった、そういう人のように。
私は、私を裏切らなかった、そう思って死にたいじゃないか。
(アシャ)
唇を噛み、目を閉じる。
(あなたを、護る)
「……『泉の狩人』(オーミノ)の協力はなくとも、『運命』にはつかぬとの誓言あった暁には……叶えて頂きたい願いがございます」
「何じゃ?」
「それは……まだ…」
口ごもるユーノを見つめていた『太皇』は、白い眉を緩やかに開いた。静かな瞳で彼女を見下ろす。
「ユーノ」
「はい?」
問いかける口調に顔を上げる。
「そなたは、強い娘じゃな」
ぴく、と思わず肩が震えたが、ユーノはまっすぐに『太皇』を見返した。
自分の瞳の中には怯えもためらいもまだあるだろう、自己憐憫も恐れも満ちているだろう、それらをすべて読み取られても構わない。
(魂よ、我が信頼に応えよ)
しっかりと目を見開くと、ひとりでに唇が綻んだ。
もう迷わない声が応じる。
「はい、『太皇』」




