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………それは不思議な感覚だった。
寒いのに暖かい。四肢の先は凍えて痺れているのに、体はどこか仄温かく、その温もりはユーノを寛がせると同時に、なぜか不安にさせた。
(あ……あ…!)
唐突な恐怖が湧き上がって身もがく。声にならない悲鳴を上げて身悶えし、のたうち、闇雲にその場から逃げようとしたが、恐怖は脚に絡みつき、体を縛り上げ、手首に食い込み、自由を奪い取った。激痛が心を切り裂いていく。ぐったりした四肢は、ユーノの意思に反応しない。
(あうっ…!!)
右肩に、背中に、脚に、目の眩むような灼熱の感覚が襲う。焼きごてを押しつけられたように、痛みはそこから体の隅々まで響き渡り侵していく。呼吸ができなくなる。必死に唇を開いても声が出ない。
ふっ、と視覚が戻ってきて、ほっとしたのも束の間、その視覚は青ざめたゼランの姿を捉えた。
(ゼラン…)
『恨みますぞ……幾度殺しても飽き足らぬほど…』
血に塗れた破れ衣の下の腕がぐっと盛り上がって、ぎらぎらとした剣を抜き放った。剣はしとどに紅に濡れ、濁った光はユーノの眼を鈍く抉る。
『幸いに……今……あなたは一人……』
ゆっくりと剣が振り上がっていく。逞しい腕が怒りに筋肉を震わせて差し上げられ、剣が逆手に持ち変えられる。左手が握りしめた柄を右手が支える。その右手は焼き焦がされたように煤けて、みるも無惨な傷を負っている。
その右手の様相に気づくと同時に、それまで単に青ざめていただけの顔の半分が、どろりと溶け崩れた。引き裂かれたように広がる口から蛆が零れる。
(っ!)
硬直するユーノの体はいつの間にか大地に貼りつけられ身動きならず、剣の真下の体を覆うのは裂けたチュニック一枚、その下には既に朱に染まった仄かな膨らみが弱々しく脈打つだけだ。相手の千切れ落ちそうな眼球がきょろりとそれを見下ろし、歯を剥き出しながら、
『これ以上の……機会が……あろうか!』
亡者の叫びが闇を突いたと同時に、両刃の広い剣がユーノの胸を深々と刺し貫いた。
(はあぅっ!!)
頭の中が空白になる。乾き切った喉が残っていた肺の空気を無理矢理押し出す。直後、引き裂かれ破れた喉が血を噴き出し、呼吸ができなくなってむせ返るユーノの胸に、なおも剣を突き立てたままのゼランが、にんまりとほくそ笑む。
『すぐには……死なせぬ……』
その顔は、ゼランからギヌアに、そしてカザディノの脂ぎった醜い笑みに次々と変わった。剣に力が籠る。ずぶっ…ずぶっ…と胸の奥深く背中めがけて食い込んでいく刃先が捻り込まれるように動いて苦痛を広げ、気を失うこともできない。誇りにかけて悲鳴を上げるまいと食いしばった口も、激痛に頼りなく開いていく。
(あ……ぅ…)
朦朧とする意識は体の制御力を放棄した。咽せてごふりと吐いた血は生暖かく、冷えた口許を濡らした。胸の剣はついに背中に到達したのだろうか、流れ続ける血が全身を濡らしている。
亡者の姿はもうなかった。剣に串刺しにされたユーノが悶え苦しむ姿を、どこかの闇で眺めているのか。
(寒いのに……暖かい…)
ユーノは夢と現の間に漂っていく自分を、他人事のように眺めていた。四肢の先には感覚がないのに、鮮血に塗れた体幹だけは暖かい。凍えていきそうなのに、次第に遅くなっていく拍動が絞り出す血液が、無駄に体を温めていく。
(死ぬんだな…)
それは不思議な感覚だった。心のどこかがほっと吐息をつく。不安に揺れながらも、その底、心の微妙な襞の奥には、微かな安堵があった。
(いいん……だね……)
どこへともわからぬ問い。
(もう…眠っても……いいね……? …私……ずっと…眠り……たかった……んだ……何も知らずに………何も考えずに………そうだ……ずっと眠りたかった……)
ほんの少し溜め息を吐く。眼を閉じる。
だが、意識を手放しかけたその瞬間、ふっと耳元に聞き慣れた声が響いた。
「ユーノ」
(アシャ?!)
はっとして眼を見開く。予期していないほど間近にアシャの顔があって、一瞬息が止まった。
「俺を置いて行く気か?」
形のいい唇がゆっくり、そうことばを紡いだ。呆然と相手を見つめているユーノの感覚が、今までと違った情報を流し込んでくる。
体の暖かさは血のせいではない、アシャが素肌のユーノを抱き締めているのだ。手足が冷たいのは、アシャに両手首を押さえつけられ、脚も絡まれているからで、胸の拍動が鳴り響くのは触れ合ったアシャの鼓動のせい、口許が暖かく濡れたと感じたのは、アシャの唇がそっとユーノの唇に重ねられていたせいだ、と。
(これは夢だ)
「ユーノ」
(これは夢だ)
「俺を見忘れたのか」
(こんなことがあるはずがない)
「今まで抱いてただろう?」
(これは夢…だ)
「ユーノ…」
ふっ、と悩ましげに口を閉じ、眉を潜め、アシャは紫の瞳を曇らせた。たゆとうような色をたたえ、長い睫毛を伏せて、ユーノの頬から耳へと唇を滑らせ、低く囁いてくる。
「どうしたんだ…? ユーノ…」
「あ…」
ふつり、とどこかが切れた。
それこそは、ずっと待ち続けていたことばだった。ただ一回、それで良かった。ただ一回、ユーノの顔を真摯に覗き込み、「どうしたんだ」と尋ねて欲しかった。そうすれば、この、心を縛った縛めが切れるのだとわかっていた。
「あ…あ」
「ユーノ?」
「ア…ア…シャ…!」
自由になった両手を引き抜き、涙をぽろぽろ零しながら、ユーノは一声、その名を呼んだ。自分を抱き締めるアシャにしがみつこうと相手をかき抱く。
「た…すけ……っ!!」
ざくっ…。
両腕に痛みが走って、ユーノは息を呑んで仰け反った。強く閉じた両目、閉ざされた視界でもわかった。両手は中空に浮いたまま、そればかりか仰け反ったせいでなお、ずぶ…っ、と胸に刃が突き刺さる感覚があった。
「ぅ…」
喘ぎながら薄く目を開け、相も変わらず胸に深々と突き立った剣と、それを抱き締めかけて、刃に食い込まれた両腕が映る。
(ま……ぼろ……し…)
どこからか、耳を覆いたくなるような哄笑が聞こえてくる。
何を望んだ。
哄笑は、そうことばになった。
何を夢見た。
嘲り笑いながら、誰かが尋ねる。
分不相応なその身で。
「ふ…ふっ…」
ユーノは微かに嗤った。閉じた瞼の下から、流れ損ねた涙が血に汚れた頬へと伝い落ちる。
「は、はは…っは……」
自分の嗤い声は響く哄笑と入り交じり、痛いほど鼓膜を叩き続けた………。




