1
(神よ! ラズーンの神々よ!)
神はとうにいないのだ、とユーノは知っていた。遥か太古にこの地を去り、ラズーンの滅びを見越して、なお生き延びろと命じた神々は、既に神話と伝説の中に還り、この地に残っているのは、閃光にも似た儚い命を持つ人々の祈りと、神々の足跡だけ……。
それでも、ユーノはなおも祈りを捧げずにはいられなかった。
(守りたまえ。助けたまえ。せめて、この私を哀れと思って、この生命を代償に、期限までに『泉の狩人』(オーミノ)の元へ行かせたまえ)
「は、あっ!!」
声をかけると、ヒストは、なおいきりたって速度を上げた。
セシ公の分領地を一路『氷の双宮』へ、ユーノは行程にして一日かかる距離を半日もたたずに踏破しつつあった。流れる汗に明け始めた空から吹いてくる朝風が冷たい。
(そして、できることなら、神よ、私の一撃がアシャの傷に響いていませんように)
呻いて倒れ込んできたアシャ、乱れ落ちた金の髪、苦痛に寄せた眉。
ユーノはあのときほど自分を哀しいと思ったことはなかった。
心の底から想って来た相手が傷ついているというのに、側に居てやれない自分、そして、その傷を抉るようなまねをするしかなかった自分。
(わかってる、ああしなければ、アシャはきっと自分で『狩人の山』(オムニド)に乗り込んだ)
そして再び冷たい山の中で、或いはまた冷酷無比な『泉の狩人』(オーミノ)の視線に囲まれて、命を落としていたかも知れない。
(そうだ、しっかりしろ!)
自分をきつく叱咤する。
確かに、ユーノが身代わりにならなければ、今度という今度は、アシャの命も危うかっただろう。そして、アシャが負傷していたからこそ、その弱みをついたからこそ、ユーノはアシャの身代わりになれた。もし、アシャがぴんぴんしていたら、ユーノごときの拳でアシャが気を失うわけはなかったのだから。
だがそれは、逆に言えば、アシャがそれほど弱っていたという意味でもあった。
(出血はしなかっただろうか。すぐに誰か見つけてくれただろうか)
叱咤した後から不安が湧き出でて、ユーノの心を激しく揺らせる。
(もしあのまま、冷たい廊下に倒れていたら? 治りかけていた傷口が再び開いて、ううん、もっと深くまで傷ついて、止められないほど出血していたら?)
ダイン要城で、アシャが胸元を真紅に染めて倒れていた光景が甦る。
それは、セシ公のあの回廊で、今どくどくと血を流しながら倒れているアシャの姿となって、ユーノの脳裏一杯に広がった。薄緑色の石に映える鮮やかな紅に浸るアシャ、流れた血がところどころどす黒く固まった頃には、体から温もりは奪い去られており、心臓は既に脈打つこともなく……。
「くっ」
ぶるっ、とユーノは首を振った。唇をきつく噛みしめる。
(もし、そうだったら……そうだったら、アシャ…)
流れ落ちてきた汗が目に入り、片手の甲で目を擦った。ひりひりした痛みにしばらく片目を閉じながらも、速度は緩めない。はあはあと忙しく乱れる息を整える間も惜しく、ヒストを急がせる。
「は、あっ! はっ!!」
(ううん、大丈夫だ)
必死に自分に言い聞かせる。
(ちゃんとセシ公に頼んできただろ? 彼がアシャを見捨てるわけはない)
風は朝独特の芳香を伴って、ユーノの顔に吹きつけた。草の匂い、微かに香ばしい樹々の薫り、どこか遠い街のざわめきが混じる。セシ公城下は既に遥か後方、目の前には『氷の双宮』の白い城壁が浮かび上がりつつある。
(今は、使者として、全力を尽くすのみ!)
ユーノがことさら急いだのには、もう一つわけがあった。
『狩人の山』(オムニド)へ入るには『氷の双宮』から抜けていくのが一番の近道なのだが、『氷の双宮』を囲むラズーンの内壁に作られた門は、四大公の召喚時にしか開かれない。その他の時は、よほどのことがない限り、外部から開くことはできない門だ。
だが、幸いにも、セシ公は、今日の朝、ジーフォ公が『太皇』に召喚されているという情報を手に入れていた。
『それに間に合えば、「氷の双宮」に入る事ができるだろう』
自分の主の住居に不法侵入するような勧めをぬけぬけと口にしたセシ公の声が、ユーノの耳の奥で響く。




