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「いや、ちょっと、その……用足しに」
「ふぅん、用足し」
ユーノは剣を帯びたアシャの姿を眺めて繰り返す。
「そっ、用足し」
「じゃ、早く行って来たら」
「あ、ああ」
ほっとしてユーノの側を擦り抜けかけ、続いたことばにぎょっとして立ち止まる。
「期限は7日」
「!」
「『使者の輪』によればね。間に合うの?」
「……知っていたのか」
ゆっくりと振り返り、相手の黒い瞳がこちらを見つめているのに苦笑した。
「実のところ、間に合えばいい、というところだな」
今更隠しても無駄だろう。本音と不安を少し、吐き出す。
「どうする気?」
「宙道を片っ端から開ける。狩人の山に入ってからは、うまくいけばシズミィの道案内が得られるかも知れない」
「シズミィ…」
ユーノが考え込みながら呟く。
「聞いたことがある。聖なる山の道案内だ」
「そういうことだ」
「でも、アシャ!」
こともなげに応じたアシャに腹を立てたように、ユーノが噛みついてきた。
「そんなことしたら、あなたの体、もたないよ!」
「ばか」
必死な目の色に笑みを返す。
「それほどヤワじゃない。伊達や酔狂で視察官だったわけじゃないぞ。ただ…」
「うん、ただ?」
(男は狡いな)
アシャはユーノの口許を見つめた。レアナに似た、けれども数段意地っ張りな線の、不安げな唇。
「『守り札』があると嬉しいな」
「あ…」
夜目にもそれとわかるほど、頬の辺りを染めたユーノが、怒り狂うかと思いきや、きゅっと唇を引き締め頷いたのに驚く。
「わかった」
「…」
浅ましいが、ごくり、と唾を呑み込んでしまった。
「気をつけていってきて」
「ああ」
どうする? 頬にくれるはずの唇を、何かが聞こえて振り向いたと偽って口で受け止めるか? それとも一度大人しく受けておいて、大変な任務に向かうのには足りないとごねてみせようか。
「ちょっと屈んでよ」
「ああ…」
ユーノはまともに『守り札』をくれる気らしい。少し背伸びをする仕草が愛らしくて、間近に漂う柔らかな熱を早く体に感じたくて、思わず零れる笑みのまま見下ろしていたら、
「…目を閉じろよ」
赤い顔で詰られた。名残惜しく、その表情を楽しんで、それから浮き浮きと目を閉じ体を屈ませた、次の瞬間。
ドスッ。
「ぅぐっ」
視界に飛び散った鮮紅色の花火、まともに鳩尾に一発食らい、痛みが体を走り抜け、呻いて崩れる。
「ごめんね、アシャ」
耳元で囁かれる声がきんきんと鳴る警告音の向こうで掠れていく。
「今夜ぐらいだと踏んでたんだ。『使者の輪』、借りるよ」
体が少しの間支えられ、床の上に横たえられる。抵抗ができない。激痛に吐きそうだ。必死に食いしばった歯の間から漏らした声に、ユーノが少し震える。
「や…め…」
左手首から抜き取られていく『使者の輪』に悪寒が走り上がった。視界が見る見るなくなっていく。ようやく塞がりかけた傷が開いたのを感じて、全身が竦み感覚を落としていく。痛み止めを呑んでいなければ、とうに消えていた意識に、ためらいがちな声が届く。
「レアナ姉さまのこと、頼むよ」
(勝手なことを言うな)
心は暗闇に抵抗する。ようやくこの手で守り切ったはずの命が、今目の前から飛び去ろうとしていることを知って、恐怖に凍った。
(俺をなんだと思ってる)
「それから…」
ユーノの声が波打つ意識の向こうで響く。
(俺は)
「ちょっとだけ……私に『守り札』、ちょうだいね」
頬に押しつけられた柔らかな温かみ、すぐに離れたそれを求めて顔を動かす。
「…く…っ」
だが、それだけで、がしり、と巨大な鎖が降り落ちたような体の重さに喘いだ。
(俺は、お前を)
「ごめん……ごめんね…っ」
慌て気味に飛び退く気配。
(お前を)
「ごめん…っ、アシャ……っ!」
遠ざかる足音、悲鳴のような謝罪、その全てが闇の奥へ消え去るのを引き止めることもできず。
「…ノ……っ…ぅ」
アシャは胸を抱えて意識を失った。




