9
夜は重苦しく更けていっている。灯皿にはもうあまり油が残っていないのだろう、頼りなげに揺れる炎は、時々ジジッと小さな音をたてて細くなり太くなりして、部屋の隅々に澱む影を怪しく滲ませている。
カ…シャ……シャ…。
「…っ」
指を伸ばし、枕元の台に置かれた銀色の輪に触れたアシャは、それが互いに触れ合って掠れた音をたてるのにひやりとした。ベッドに上半身を伏せて寝息をたてているレアナを見やる。
だが、つきっきりで看病してくれていたレアナは、さすがに疲れてしまったのだろう、熟睡しており、身動き一つしない。仄かに開いた唇は花のように淡い色、紡ぐ吐息の甘さは美姫として名高い彼女にふさわしく、人の心を悩ませる。
(無防備というか無邪気というか…)
いくら怪我人とは言え、一国の姫が男の部屋で一人っきりで眠り込むとは。
苦笑まじりに半身起こし、レアナの寝顔を優しく見つめる。
(やっぱり姉妹だな。ユーノに似ている……あの目元とか…唇とか)
だが、ユーノなら、アシャが起きる寸前の気配で飛び起きているだろう。
(そして、次の瞬間、俺は喉に剣の切っ先を当てられているというわけだ)
それこそ、僅かな反撃の隙さえ見いだせないような状態で。
(俺にさえ……心を許していない…)
傷とは違う、もっと深くの胸の中がずきずきと痛む。やるせなさに溜め息が出る。
(いつまであいつを追い続ければいいんだ)
追えば追うほど、ユーノは遠くへ遠くへ走り去っていってしまうような気がする。やっと捕まえて抱き締めたかと思えば、この手から幻のように擦り抜けていってしまう、昔話にある永遠の乙女のように。
(そうなのかも知れない)
半裸の体を起こしたまま、ぼんやりする。
(あいつは結局誰にも捕まらないのかも知れない。捕まえようとすればするほど、俺の側から離れて行ってしまうのかも知れない……だが)
カシャ。
「!」
ふいに銀の輪がずれ落ちて音をたて、我に返った。8本の輪のうち、既に4本、加えて5本目の半ばまで鉛色に変色しているのを凝視する。
(だが、今それを悩んでいる時間はない)
『泉の狩人』(オーミノ)と約束した期限は後7日、宙道を片端から開いていったとしても、狩人の山に入るまでに2日、『泉の狩人』(オーミノ)達に出会うまでに3、4日。ぎりぎりの日程の上にこの傷では、体力と気力の勝負になる。
『そうまでして、その娘の側に戻りたいのか』
アシャの頭の中にラフィンニの戸惑ったような声が甦った。
使者のやり直しを命じるラフィンニに、その前にどうしても行かなくてはならない場所がある、とアシャが懇願した時の返答だ。
『そなたが自分の状態がわからぬほど愚かとは思えぬ。むしろ、医術師としても名高いアシャが、どうしてそこまで無茶をする?』
(ただ一人の娘のために)
嘲られるのを承知で応えたアシャに、ラフィンニはなぜか一瞬、空ろな眼窩の奥で笑みを浮かべたようだった。
『よかろう。そなたも当たり前の男だったのは残念だが、悪くもあるまい』
ミネルバに似た皮肉っぽい口調で応じたラフィンニは、シズミィを道案内とさせ、わずか2日で狩人の山を下らせた。
(そうまでして駆けつけてきたって言うのに、相手は相も変わらず冷たいとくる)
「あつっ…」
レアナが眠っているのと反対側からベッドを滑り降りかけ、ぎくりと体を強張らせた。左胸に右手を当てる。激痛が走った奥、細胞の活力の弱まりを感じる。代謝がまだ不安定だ。
「ちっ」
(思ったより深いな)
『氷の双宮』の最新技術もなく、よくも永らえたというところだが、手当をし直している時間もない。
舌打ちしつつ、動くにつれて見る見る増してくる痛みを堪えながら、ベッドから抜け出た。銀の輪を左手首に通し、椅子に畳まれていたチュニックを身に着ける。一緒に置かれていた剣を部屋の隅で帯び、薬袋から痛み止めを口に放り込む。
いつぞやユーノに呑ませたものとは違う、感覚を遮断する類のものだ。効きが遅いのが難点だが、『泉の狩人』(オーミノ)ともう一度交渉に持ち込むあたりには十分効いてくれているだろう。持続時間は長いはずだ。
(明日になれば大騒ぎだ)
きっとまたユーノに力の限りののしられるのだろう。
薄く笑いつつ、部屋を出て廊下を歩いていくと、ふいに前方に影が動いた。立ち塞がるような姿、『運命』の気配ではないが、このご時世、安全なところなどないだろう。
鯉口を切りかけた矢先、
「アシャ」
「ユーノ…」
聞き慣れた、だがまさかこんなところで聞くとは思わない声が響いて、アシャは呆気にとられた。廊下の窓から入る月光の中へ出てくる相手に声をかける。
「どうした? こんな時間に」
「それはこっちの台詞だろ」
じろり、とユーノは険のある目つきでアシャをねめつけた。
「昨日まで『死んでた』怪我人が、こんなとこで何してる?」




