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(…ああ……)
ラズーンを飛び出したアシャ。諸国遍歴を繰り返すアシャ。ラズーンへ戻りたがらなかったアシャ。
(私……)
詰まる胸に唇を噛む。
(アシャを……連れ戻しちゃった、のか……)
世界存続の贄として、歓喜と熱狂の手で捧げられる祭壇に、ユーノはアシャを追い込んだだけだったのではないか。
(わかる)
それならわかる。自分の美貌にも才能にも周囲の好意にもどこか無関心な意味が。慣れているからというだけじゃない、そんなこと、何の意味もなかったからだ。
(どれだけ綺麗だと言われたって、才能があると言われたって、どんなにあがいてももがいても、先にあるのはあの『氷の双宮』だ)
いずれは封じ込められ、世界を再生させる装置をずっと監視し続ける日々しか残らない。誰かとどんなに深い絆を結んだところで、やがて全ては奪われ失われていくのがわかっている、時間の中に、世界の闇に。
(……そんなところに……連れ戻しちゃった…)
アシャはわかっていただろうか。わかっていて、それでもユーノに付き合ってくれたのだろうか。
二度とここには戻らない、そう覚悟していたのは、ユーノではなく、本当はアシャの方ではなかったのか。
アシャの胸に巻かれていた包帯。あれはダイン要城での傷だけではなく、ユーノに付き従うことでアシャが支払った心の傷みでもあったのではないか。
そして今、『泉の狩人』(オーミノ)に向かおうとしているのは、その『正統後継者』としての役目に他ならない。
(だめだ)
ユーノはゆっくりと瞬きして、滲みそうになった視界を追い払った。
(これ以上、アシャを傷つけるわけにはいかない)
既に十分巻き込んだし、十分助けてもらった。それにむしろ、今後のことを考えれば、『正統後継者』の責務を支払うのは、アシャではなくてユーノだろう。
(……あれ?)
だが、そこでユーノは再び疑問に突き当たる。
アシャは『第一正統後継者』なのだ。
もし、今の考えでいくなら、アシャであろうとギヌアであろうと、最後は適合の問題なのだから、別に順位は関係がないだろう。いよいよと言うときに初めて、誰が『次』として準備されるかが決まるはずではないのか。
(なのに……どうして、アシャは『第一』なんだろう…?)
「ユーノ殿?」
「…セシ公」
呼びかけられて思考を中断した。
「その使者はアシャでなくてはいけないんですか?」
「……それを聞いてどうされる?」
机に肘をつき、ゆっくりと細い指を組み合わせたセシ公が、その向こうから鋭い目でユーノを凝視する。
「…気づいてるくせに」
思わずくすりと笑ってしまった。相手の目に浮かんだ、らしくもない心配そうな色に、微笑んだまま目を伏せる。
「あんな状態のアシャを行かせられると思いますか? ……彼には、今までずいぶん助けてもらったんだ」
(そうだ、本当に)
ユーノが知らなくて気づいていなかった、たくさんの部分で。
「だから、今度は私が役に立つ番なんです」
「『だから』、一人で?」
セシ公がにこりともせず詰めてくる。
ユーノは黙って笑みを深めて応じ、立ち上がって壁に貼られて地図に向き合った。一番大きく広範囲なものをに指を伸ばす。
古びた黄色地の布に彩色を施したその地図は、中央より少し上にラズーンの『氷の双宮』を描き、その上方に聖なる『狩人の山』(オムニド)、下方に四大公の分領地を始めとするラズーン支配下を配してあった。セレドは遠過ぎて、この縮尺では地図におさまらなかったのだろう、懐かしい祖国の名はそこにはなかった。
「セレドはこのあたりかな」
指先を地図の外、薄緑色の貴石の上に滑らせて小さな丸を描き、そこからまっすぐ線を引き、『氷の双宮』までなぞる。
「……短い旅ではなかったはずだ」
セシ公が低く呟いた。
「その間、あなたはアシャとずっと一緒だった」
どこか惑いを秘めて柔らかな声音だ。
「短い旅じゃなかった」
同じように低く応じた。
「長い旅だった……それでも」
(アシャはレアナ姉さまを呼びました、セシ公)
切なく苦く広がった傷みを瞬時に振り切り、ことばを継ぐ。
「それでも、私にとっては何より幸福な旅だったんです、セシ公」
肩越しに視線を投げる。こちらを貫くように見つめるセシ公の瞳をたじろぐことなく見つめ返す。
「ここまで来たからには、無事にセレドへ帰りたいものですからね」
にやりと笑って片目をつぶった。深い憂いがセシ公の左目を覆い、相手は優雅な仕草で髪を払う。
「その後は?」
「え?」
「セレドへ帰ってからは、どうするんだ?」
胸の奥へまっすぐに突っ込んでくるような問いに、答えを失う。
「……まだ…考えていません」
ユーノは再び地図に目を戻した。
「セレドは遠いですからね………まずは無事に帰ること……もし、生きて帰れたら……そうだな…」
『正統後継者』の話をまだ公にしていいのかどうかわからなかった。そっと笑ってみせる。
「また、旅に出るのもいいかもしれない」
「もう一度、ラズーンに来る気はないか?」
「?」
きょとんとして振り返る。情報通のセシ公は、もう何か悟っているのだろうか。
「困ったことに」
セシ公は机に肘をついたまま、まるで子どもがするように、右手の指先で髪の一房を摘んで捻りながら続けた。
「あなたを知るごとに、もっとあなたを知りたいという気持ちになってね」
意味を量りかねている、そうユーノの表情から察したのだろう。苦笑を添えて、甘い声音で付け足した。
「リヒャルティが恋敵というのは役不足だが」
「…セシ公…」
呆然とするユーノの目の前で、組まれた銀の輪が1本、かしゃり、と崩れ落ちた。




