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(そう…だ…)
アシャの話は途中からユーノの耳に入ってなかった。
(アシャだって、怪我もするし……傷も受ける……この先だって)
アシャの胸に巻かれた、陽光を白く跳ね返す包帯を凝視する。女性的な面立ちを裏切って、ほどよく引き締まった余分な脂肪一つついていない筋肉が、魔的な拘束を受けているようにも見える。
(それどころか…死ぬことさえ、ある…)
ぞくりとしたものがユーノの背筋を滑り落ちた。
ダイン要城で感じた、足下が崩れていくような感覚。自分の四肢が切り飛ばされても、あそこまで無力感に襲われるだろうか。
確かに今までは、アシャは、数々の試練をほとんど掠り傷一つなく切り抜けてきていた。戦う姿を想像させることさえない艶やかな美貌、その実、他のどんな剣士よりも鮮やかに容赦なく敵を仕留めてきていた。
だからユーノも失念していたのだ、アシャの身に及ぶ危険について。
(外れた…とはいえ、ラズーンの『正統後継者』…)
世界が二つに分かれて戦乱へ突入していこうという時代、その称号だけで、アシャは十分狙われる理由がある。ましてや、第二正統後継者であるギヌアが『運命』の頭領となり、他に幾人正統後継者や候補がいるのかは知らないが、おそらくギヌアに対抗できるのはアシャのみとなれば、命を狙われる機会はますます増えるだろう。
今幸いにも、『泉の狩人』(オーミノ)はアシャの申し出を受け入れてくれたようだが、『運命』に味方する輩の中には、どんな敵が待ち受けているかわからない。その中に、アシャと同程度、いや、ひょっとするとアシャを上回る力量の持ち主が絶対いないという保証はない。悪辣な手段を使うものがいないとも言い切れない。
現に、アシャのこの傷だって、ギヌアの卑劣な手によるものなのだ。
(あなたを……失う…?)
その想いはダイン要城のあの夜を越えて、ユーノに真実の刃となって突き刺さり、慄然とさせた。
「ユーノ?」
呼びかけられて見返す、不審そうに眉をひそめる、陽の光に色を変える紫水晶の瞳、旅の途中、幾度も行き先を示してくれた確かな指、ユーノを気遣って差し伸べられた腕、眠れぬ夜に憩いと安らぎを与えてくれた甘く柔らかな声、時に妖しく濡れ、時に厳しく引き締められても、ユーノを振り返り微笑んでくれる淡色の唇、風に動作に乱れ舞う金褐色の髪。
(全てを失ってしまう時が来る、というのか?)
例えば、アシャがレアナと共に人生を歩み、ユーノは一生その側で一人孤独な夜を見つめ続けなくてはならないとしても、それでも、そこにはアシャが居る。レアナのものになってしまおうとも、二度と手の届かない人になろうとも、望めばその笑い声を聞き、その笑顔を見ることができる。
たとえ、ユーノが永久に報いられることはなくとも、少なくともアシャは生きていてくれる、ユーノと同じ場所、同じ時間に。
(嫌だ)
いつか感じたよりも数段激しく、その想いが心で砕けて、ユーノは唇を噛み締めた。
(そんなの、嫌だ)
堪え切れぬ想いに目頭が熱くなる。
(あなたを死なせるなんて……私の……ユーノ・セレディスの名にかけて、許せない)
「どうした? ユーノ?」
困惑したように問いかけてくるアシャに笑おうとした。だが、強張った頬の筋肉がなかなか解れない。揺れる心が止め切れない。眉が寄るのを感じた。細めた目の奥から熱いものが滲むのもわかった。溢れ出すものを止める力が、あの夜の記憶にこそげとられてしまったようだ。
「…ユー…ノ…」
アシャが呆然とした顔で呟いた。
「お前…」
悩ましげな色を瞳に浮かべ、そっと手を伸ばしユーノの頭を引き寄せる。指先が髪に触れるのに一瞬逃げかけたが、心の深い部分がそれを拒んだ。引き寄せられるままに目を閉じる。
「…泣いているのか…?」
惑うように、けれども、それ以上深められないほど甘い囁きを耳元に吹きつけ、アシャは顔を近づけてくる。
(ア…シャ…)
吐息が優しく唇に触れる。陶然として感覚に酔いながら、ユーノは息を吐く。
「…誰のための涙だ…ユーノ…」
低く熱っぽいアシャの声、ユーノの体を包む腕も熱い。堪え切れないように、そのくせ優しく触れかける唇……ためらいがちに……そっと…。
「アシャ」
「っっ!」
扉が開く音、それに重なるレアナの声が部屋に響くか響かないかで、ユーノは我に返った。慌ててアシャの抱擁を擦り抜け、入ってくるレアナの顔を見ないまま、入れ違いに部屋を飛び出す。
「ユーノ?」
「何でもないっ!」
不審気なレアナの声に投げ捨てるように叫んで、ユーノは庭へ走り出た。




