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「……」
(その場に私が居なくてよかった)
ユーノは血の気が引いた顔で考えている。
大怪我をして血に塗れ、息も絶え絶えのアシャを放っておくなどできなかっただろう。たとえ『泉の狩人』(オーミノ)であろうとも剣を抜き放ち、アシャに手当を受けさせるために刃を交えていただろう。
そうなれば、せっかくアシャが激痛を堪えて持ちかけた交渉は潰れ、気分を害した『泉の狩人』(オーミノ)は敵に回り、ラズーンは崩壊するしかなくなっていただろう。
アシャが堪えたからこそ『泉の狩人』(オーミノ)の心を動かし、長の前まで連れて行かせることができたのだろう。
(よく…無事で)
背筋を滑り落ちる冷汗に震える。
「さすがにしばらく、意識がなかった」
アシャの話は淡々と続く。
どこをどう運ばれたのか。
アシャが気づいたのは、唐突に響き出した血の滴る音のせいなのか、それともどこかに視察官の本能のようなものが働いたせいなのか。
ただ、セールが立ち止まり、もう1人の『泉の狩人』(オーミノ)の声が陰々と響くのに、どこかの邸に入ったらしいということだけはわかった。
『長よ、ラフィンニよ』
(ラフィンニ)
消えかける灯のように明滅する意識の中に、ことばが光となって差し込んでくる。眩く輝く光ではない、周囲の光を奪い取る闇色の光条だ。
(死を……司る者…)
『おお、これはウォーグ……それは?』
もう一つの声がすぐに応じた。衣を捌く音が静かに歩み寄ってくる。
『ラズーンのアシャ……己の血を持って、長にお目通りを願いましたので』
『おろしなさい』
『はい』
どさりと無造作に手荒く床に投げ出され、アシャは呻いた。衝撃に裂かれて、止血しきっていなかった傷が新たに鮮血を絞り出し始めるのを感じる。身動きしようとしても、さっきよりも数段重くなった体は反応せず、それでも何とか頭を巡らせて、視界に相手の姿を捉えることができた。
ラフィンニの意は『死を司る者』、その名を『泉の狩人』(オーミノ)の長のものとして知っているのは、ラズーンでもごく少数だ。そして、その姿を見て生き延びた者は、過去にはただ1人、『太皇』のみ。
『そなたがアシャか』
すぐ近くから声がした。他の『泉の狩人』(オーミノ)と同じ、薄白い骸骨に深く窪んだ黒い眼窩が、酷薄な気配をたたえてアシャを見下ろしている。正統後継者の名も、アシャの容貌も彼女には意味がないのだろう、虫けらを見るよりも冷ややかな侮蔑が降り落ちてくる。
『ならば、我らの噂を聞かぬでもなかろう』
嘲笑さえも響かせない、無感動な声。
「聞いて…いない…」
切れ切れに応じたものの、それだけの仕事で顔から血の気が引いていくのがわかった。ショック症状が起こる寸前なのだろう、耳鳴りがうるさく、呼吸が弾み、声を保つのもままならない。ラフィンニの前に人形のように投げ出されたまま、礼も取れぬ姿だったが、かろうじて薄く笑った。
「少なく……とも……あなたの……名…ほど…には…」
名、のことばに微かにラフィンニの気配が反応した。
『我らは「太皇」以外には応じぬ』
感情を含まなかった声が一転、突き放した口調になる。
『そう伝えるがよい』
くるりと向きを変え、立ち去ろうとして、ラフィンニは突然立ち止まった。ゆっくりと上半身だけを振り向かせ、アシャを、いや自分のドレスの裾を血に塗れた掌で掴んでいるアシャの手を見下ろす。
「そう…いう……わけ……には……いかな…い…」
囁くような声しか出せなかった。ことばを吐き終えると、別のものがせり上がりそうになって、口と目を固く閉じる。力の限り握りしめているはずの指の感覚が遠い。床を突き抜け、どこへとも知れぬ闇に落ち込もうとする体を、かろうじてつなぎ止めている気力、握り直す余力はなかった。
「…く」
まずくすれば、伝え切れぬままに気を失う。そして、勇者の中の勇者として名高い『泉の狩人』(オーミノ)が、敵陣に使者として立ったくせに用件も口にしないうちに気を失うような男を戦士と認めるわけはなく、そればかりか、そんな屑などこの世に生きる命にとって邪魔にしかならぬ、そう考えることも明らかだった。
「…ここで……屠るか……用件…を…聞くか……どちらか…を」
ぐらりと激しく辺りが揺れた。吐き気が急に強くなり、胸を焼いて喉を詰まらせる。必死に堪えて食いしばった歯の間から、ようよう呼びかける。
「長よ…」
冷や汗が流れる。四肢が震える。掴んだドレスが指の間から擦り抜けていきそうで、爪が掌に食い込むまで力を込めた。
「…えらん…で…もら……う」
『命を盾の遣いか』
ふ、とラフィンニが苦笑した気配が漂った。
『弱ったのう、アシャ・ラズーン。彼の地におれば名高い戦士が、我らが神殿で雑兵として果てるか』
「う…」
それも覚悟、そう答える気力はなかった。崩れ落ちてくる意識に体を強張らせ、顔を背ける。吹き出した汗が滝のように流れ落ち、血と混じり衣類をしとどに濡らした。左胸も左腕も、感覚は既にない。握りしめているはずの手の感覚さえどこにもない。漆黒の奈落が目の前に口を開ける。
(あ…あ)
最後の踏ん張りも使い切った。体中の血は全て流れ落ちた。残っていた微かな意識が闇に落ち込もうとした瞬間、
「、あううっ!」
傷を強く押さえつけられ、衝撃に体が跳ね上がった。見開いた視界に光が戻る。
(まだ、俺は)
呼吸はまだ止まっていない。傷みを感じる、冷えていく自分の体の感覚も戻る。だが、ラフィンニはそこでおさめてはくれなかった。
「…、っ」
傷に潜り込む指先に息を引く。痛みというより灼熱の刃に刻まれる感覚に残った体力で身悶える。
「ぁ、あっ…!」
『セール。ウォーグ』
傷を指先で探りながら、ラフィンニは続けた。
『傷の手当を。創は深いが中は清い。遣い一つに命を賭ける男にふさわしい礼儀を……アシャ・ラズーン?』
激痛にがくがく震えるアシャを覗き込むラフィンニが囁く。
『死を司る者とて、美はわかるものでな……』
ほほ、ほ、と妙に華やかな笑みが続いた。