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「ったく、もう…」
「何を怒ってる」
「傷口なんだぞ、まだ治り切ってなかったら」
「痛かったか?」
「…もういい」
ユーノは唇を尖らせて顔を背けた。
ベッドのアシャの瞳は笑みを含んでいて上機嫌だ。長い間臥せっていたにしては調子が良さそうだ、そう思った瞬間に脳裏を掠めた影に後悔した。
(当たり前、か)
ようやく想い人と会えたのだ。すぐ側で声を聞き、柔らかな体温を寄せられ、甘い笑みを向けられて寛がない恋人などいるものか。
「それより」
思いついたことにはっとして、ユーノはアシャを振り返る。
「ん?」
「『狩人の山』(オムニド)でのことを話してよ。後で話すって約束しただろ」
「『狩人の山』(オムニド)……そうだな」
一瞬、暗い影がアシャの瞳を覆った。だが、それは問い正す前にすぐに消え、アシャは低い声で話し始める。
「『狩人の山』(オムニド)に入ってすぐ、俺はギヌア達に待ち伏せされた」
「ギヌア…!」
息を呑むユーノに、ああ、と苦く笑った。
「俺が甘かったってことだ」
『泉の狩人』(オーミノ)と『運命』が手を結ぶのを阻止するべく『狩人の山』(オムニド)に分け入ったアシャは、それでも何とかギヌア達を防ぎ、その意図の一つを挫いたものの、左腕と左胸、脇腹を負傷した。
傷は思ったよりも深く、出血が続き、さしものアシャも昏倒して雪に埋もれ、このまま果てるのかと思われた。
「…ぅ…ん」
が、しばらくして、アシャは何か柔らかくてしなやかなものが、首の当たりに触れている気配に薄目を開けた。
ぼんやりと霞んだ視界に銀青色の塊が映る。瞬きをしたとたん、それは、尖った耳で四つ足の、ほっそりした顎に金と青の色違いの眼の動物となって像を結ぶ。
「く!」
(シズミィ!)
動物の名前に思い至ったアシャが跳ね起きようとした瞬間、それを待ち構えていたように喉に巻きついていた尾が締まり、左胸を押さえつけていた前足が爪を立てる。
「ぅぐ!」
激痛に弾かれる体、顔を歪めて再び雪に沈む。
衝撃に乱れた呼吸を何とか整えながら、アシャは相手を見定めた。
成獣ではないのだろう。アシャの両腕に抱えられるほどの大きさだが、ぴんと伸びた白い髭、容赦なくアシャの傷に食い込ませてくる金色の爪、細身の骨格に無駄なところのない筋肉、残忍なほど冷たい双眸は紛れもなく天性の殺戮者のものだ。
身動きを押さえたアシャの胸から、裂けた衣を濡らして生温かなものが滴っていく。相手はゆっくりとそれを見下ろし、僅かに目を細めると顔を降ろしてきた。目を伏せ、桃色の舌を出してアシャの血を舐め取ると、満足そうに改めて口を開いた。獲物を味わうように傷の辺りから首筋、頬へと舌を移動させていく。
「…く…ぅっ」
ざらざらした細かな棘があるような舌に舐め擦られ、傷が開き、肉がこそげられる。次々砕ける激痛に、アシャは眉をしかめて歯を食いしばった。今すぐに掴みかかりもぎ離したいのを堪えながら、四肢を投げ出し目を閉じる。
銀青色の獣の名はシズミィ。肉食動物で人肉も好んで食する。攻撃は執拗で獲物を骨にするまで離れない。自由自在に動く五本目の手のような尻尾は体長と同じぐらいあり、爪で掴み切れずとも、獲物の首を尾で巻き締めて折ることもできる。
今アシャの首を締め切らないのは、アシャが身動きせずに、自分の餌となるのを甘受しているから、つまりは生き餌の方が好みなのだ。
「ぅ、ぐ、う…」
体が勝手に跳ねる。首を締める力がじりじりと増す。ぴちゃぴちゃと楽しげに鳴らす舌が肌に落ちる度に悪寒が走る。相討ち覚悟ならば抵抗できなくもない、だが、実は、この獣は他の何よりも危険な要素を持っていた。
『そこまでにするがいい、シャギオ』
ふいに、あたりの空気を一瞬に澱ませるような暗い声が命じた。ぴくりと不服そうに獣がアシャを味わうのを止めて顔を上げる。
『シズミィに襲われても耐えるところは、さすがにアシャと言いたいが』
違う方向からも似たような響きの声が嘲った。
『いかなアシャとて、これ以上に出血に耐えられるとは思えんな』
「……」
アシャは荒い息を弾ませながら眼を開けた。




