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誰かが泣いている。泣き声さえも漏らすまいとするかのように唇を噛み、肩を震わせ、一人で泣き続けている。
(泣いているのは……お前なのか、ユーノ…)
アシャはぼんやりと呟いた。胸が重だるい。左腕にも、その鈍い感覚はあった。
(なぜ泣く?)
問いかけに振り返る気配があった。前方の闇に消えて行こうとするユーノがこちらを振り向く。
わからないの、アシャ、とユーノは問いかけてきた。
なぜ、私が泣いているか、わからない?
(わからない…んだ)
苛立たしさに首を振って手を伸ばす。ユーノの細い手首を掴む。引き寄せて胸の中に抱き締める。唇を寄せ、相手の頬に流れた涙を拭おうとする。と、瞬間、ユーノの姿は腕の中から消えていた。
(ユーノ?!)
はっとして前方を見直すアシャの目に、歩み去るユーノの姿が映った。その先の闇に禍々しい『運命』の気配がある。かっと開いた魔物の口、だがそれにも気づかずに、ユーノは淡々と歩を進めて入り込んでいく。
(馬鹿! 行くな、ユーノ! そっちは危ないんだ!)
いいんだ、アシャ、と声が響いた。わかってるんだよ。
(わかっている? 何をわかっていると言うんだ! 俺の気持ち一つもわからないくせして! ユーノ!!)
「ユー…ノっ!」
「きゃっ…」
叫んで目を開けたアシャは、握られた手首を強く引かれ、半身起こした我が身によりかかるように横座りしたレアナを認めた。驚き慌てることもなく、ごく自然な動作で乱れた栗色の髪を軽く払って、レアナはアシャを見つめ返す。紅潮した頬に美しい笑みが零れる。
「よかった……気づいたのね、アシャ」
「レアナ…」
なぜここに。いや、それよりも。
周囲へ投げた視線から、戸惑うアシャの気持ちを見抜いたように、
「セシ公公邸ですよ」
レアナは優しく囁いた。
「2日2晩、眠り続けていたのよ」
「2日…2晩……?」
レアナのことばを繰り返し、アシャははっとした。
「いかん! 、つっ!!」
「だめよアシャ! そんなに急に動いては!」
激痛に体を強張らせたアシャに、レアナが慌てて体を寄せてきた。白くたおやかな両手をアシャの胸にあて、宥めるように続ける。
「無理をしては、治るものも治らなくなりますよ」
「しかし…っ」
脳裏を過った約定、交わした相手の酷薄さを思い出して軽く皮膚が粟立つ。
「レアナ、私は…」
「アシャ」
止めようと、半裸の包帯姿のアシャになお身を寄せたレアナ、傷つけないように押し戻そうとして、結果彼女を抱きとめるような体勢になったアシャ、互いに向き合い見つめ合うそこへ、
「姉さま、アシャの具合は…」
急に扉が開いて声が響いた。ぎょっとして戸口を振り向くと、今しも扉を開けて入って来ようとしたユーノが、大きく目を見開いて凍てついた顔で立ちすくんでいる。目の前の光景を確かめるように、アシャ、レアナ、そして再びアシャと視線を動かして、唐突にふっと笑った。
「悪い」
片目をつぶって身を翻す。
「無粋なことした、ごめんね」
そのまま扉を抜けて姿を消してしまう。
「え、あ…」
レアナがようやくユーノの意図を察して薄赤く頬を染め、慌て気味に立ち上がる。
「ごめんなさいね、アシャ、あの子ったら早とちりで……でも、起きてはだめですよ、ちゃんと横になって。お腹が空いたでしょう? 今何か食べるものをもらってきます」
レアナは白い裳裾を閃かせ、どこか弾むような足取りでいそいそと部屋を出ていく。その、開け放った扉が中途半端に戻りかけ、止まっている。
「……ユーノ」
しばらくそれを見つめていたアシャは、息を吐いた。
「そこにいるな?」
キィ、とわずかに扉が動いた。たゆとうような瞳で、ユーノがおずおずと扉の影から姿を現す。
「あ、ご、ごめん、アシャ」
まるで叱られる子どものように俯き加減になったユーノが、急いでことばを継ぐ。
「まさか目が覚めてるなんて思わなくて、あの、ほんとに……邪魔するつもりはなかったんだ」
「……」
(本気かよ)
奥歯を噛み締めた。イルファではないが、詰りたくなった。
(本当に、俺の邪魔をしたと思ってるのか)
アシャの据わった視線にも気づかないまま、ユーノはわたわたと弁解を続ける。
「ほんと、気をつけるから、今度から」
「……傷」
ずっと眠っていて見ていなかった、だから密かに気になっていたことが、アシャの口から勝手に零れ落ちた。
「え?」
「傷を見せてみろ」
「大丈夫だよ」
野獣の唸り声に聞こえたのか、ユーノが両腕を背中に庇う。
「かすり傷だから。あなたのに比べりゃ、傷のうちにも入らないほどの」
「見せるんだ」
意識して唸った。このままじりじり逃げる気ならば、ベッドから飛び降りて引っ掴んでやる、その気配が通じたのか、ユーノは困りきった顔でそっと近寄ってくる。
「腕を出せ」
「う…ん…」
そっとユーノは両腕を差し出す。その手には、まだ両方とも包帯が巻かれていた。
アシャは無言で、まず左腕から包帯を解いた。ぱらりと布が落ちた下には、薄皮が張ったばかりの真新しい傷が、他の白く固まった傷痕に混じって浮き上がっている。右腕も同様に包帯を解き、アシャは丹念に傷痕を観察した。
「…っ」
間近に顔を寄せたせいで、吐息がかかったのだろう、ひくりとユーノが震えた。苦しそうに顔を歪め、やがて耐えかねたように顔を背ける。それでもアシャは傷痕を丁寧に検分し、ようやく深く溜め息をついた。
「よかった…」
「…え?」
「ダイン要城では剣に毒を塗る場合が多いんだ」
様々な毒を使うが、中でも酷いものは治りかけた傷をもう一度内側から爛れさせていき、皮膚を腐らせていくものだ。どれほど手厚く治療しようと、治ったと思った部分から口を開いて崩れていく。
「…だが、大丈夫だ。この傷は毒刃にあたったんじゃない」
「そうか…」
そんなことがあるのかと訝るようなユーノの視線に繰り返す。
「運が良かったんだぞ」
「う、ん…」
(本当に運が良かった)
一歩間違えれば、勝利と引き換えにユーノを失うところだったのだと、今更冷や汗が滲んだ。
それでも今、この体を、何とか無事に自分の手に取り戻せている。
しみじみと安堵して、アシャはユーノの腕を深く押し頂いた。唇を寄せて、左腕の傷、続いて右腕の傷に口づける。
「ア、アシャ!」
悲鳴じみた抗議が上がった。




