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「よかったのか?」
閉じた扉を見ていたセシ公が、ゆっくりと振り返った。どこか妖しい色気のある微笑、レアナが居る時には秘されていた本性が見える笑みを零す。
「……何が、です」
「レアナ姫に付き添わせて」
「……アシャはレアナ姉さまを愛している」
ぼそりとユーノは呟いた。
「苦しんでいる時に、愛している者に側に居て欲しいと思うのは、当然でしょう」
「それで、あなたは…」
それ以上、相手のことばを続けさせまいと、ユーノは鋭い視線を向けた。応じて黙するセシ公に、冗談のように肩を竦めてみせる。
「私は姉さまの妹、それだけのことです。……それより、セシ公」
姿勢を改めて向き直った。
「あなたがダイン要城へ来て下さるとは、思いもしませんでした」
負傷し気を失ったアシャを抱えて立ち往生していたユーノ達を救ったのは、他ならぬセシ公に率いられた『金羽根』の一群だった。国境を地下道で越え、ダイン要城の様子を伺いつつ待機し、魔物の狂乱がおさまり、疲れ果て横たわった隙に襲い掛かってこれを屠り、死が充満したダイン要城へ乗り込んできて、ユーノ達を助けてくれたのだ。
ただ一つ、ドーヤル老師の姿がどこにもなく、それだけが気がかりと言えば言えたが……。
「それは…私が中立だからか?」
セシ公が楽しげに問い返した。
「あなたは慎重な方だ」
ユーノは微笑みながら続ける。
「たとえ、実の弟が居たとは言え、自ら兵を率いられるのは前代未聞のはず」
「荒仕事は苦手なのだ」
セシ公は笑みを絶やさないまま、そっと指先で髪をかきあげた。
「情報交換を行う方が容易い」
そう言いながらも、その実、おそらくセシ公は『金羽根』の誰より『荒仕事』を完璧にこなしてみせるだろう。微笑みながらラズーンを裏切り、『運命』にも従わない、そういう綱渡りを易々とやってのける度胸と実力の持ち主だろう。
「そのあなたが、一体どうして」
ユーノは静かに問いかけた。
確かに、負傷したアシャに手厚い看護を受けさせ、ユーノ達に慰謝を与えてくれようとしていることに、嘘偽りはない。
だが、その裏に何の意図もなく、ただただ善意だけを与えてくれる、とは思えなかった。仮にも、セシ公、ラズーンの情報屋を名乗る男が、己の立場を捨ててまで一方に加担するのに、何の見返りも期待していないとは思えない。
「……一つには、リヒャルティはやはり私の弟だということ」
どう応じようか、一瞬そうためらった気配を漂わせた相手は、目を細めた。
「次には、世に名高いレアナ姫を見たかったこと」
さきほどのやりとりの上のこのことば、ユーノを挑発しているのかも知れないと思ってもちりちりした。
(からかうだけならいい、私を抑える手立てでも構わない)
だが、本当に何かの手段としてレアナの存在を考えているだとしたら。
「…」
無言で殺気を込めてセシ公を睨みつける。だが、相手は瞳を淡く煙らせて、ゆっくりと目を伏せた。白皙の美貌に微かな苦笑が広がる、まるで敵陣で初めて自分の窮地に気づいてしまった男のように。
「そして何よりも」
なおためらい、やがて諦めたように続けた。
「……リヒャルティの二の舞だ」
「は?」
「………あなただ」
意味がわからず、ユーノは瞬いた。
「あなただ、ユーノ殿」
セシ公という存在からは考えられないほどのうやうやしさでことばを継いだ。
「何があなたを動かしているのか、あなたがどうしてそこまでラズーンに肩入れするのか、それを知りたくなった」
「私が…」
何がユーノを動かすのか。なぜラズーンの側に立ち続けるのか。
脳裏に過ったのは今床に伏しているアシャ、護りたいと願い、幸福で居てほしいと祈る相手の笑顔。
ただ、アシャに笑っていてほしい、それだけなのだと伝えて、さてセシ公は信じるだろうか?
「我らは、これからラズーンの下に居る」
セシ公は淡々と言い切った。
「いつ何時でも呼ばれるがよい。ラズーン四大公の一人、セシ公は我が配下と、胸を張って言われるがよい」
薄い唇が皮肉な笑みを浮かべた。
「ユーノ殿、私が武運をと願うのは、あなたが最初で最後になるだろう。セシ公は…」
くっ、と低い忍び笑いをして付け加える。
「得ておいても損にならない男だと思うが?」
それは自惚れでも何でもないだろう。セシ公が味方となるなら、これほどラズーンにとって心強いことはないだろう。
だが、本当、だろうか。
ただユーノの生き方への興味だけで、この男が協力してくれるものだろうか。
「ラズーンは滅ぶという噂の中、私に賭けると?」
「滅びもまた悪くない。ユーノ殿」
セシ公はユーノのことばを待たなかった。静かに深く礼を取る。他の者にこれほど頭を下げたことがあったのかどうか、さらさらと流れ落ちる髪が灯を跳ねながら床に垂れる。それから静かに顔を売るあげて、ユーノを振り仰いだ。
「快き夜を」
「…こころよき、よるを」
それが挨拶らしいと気づいて慌てて返すと、一瞬、ひどく不似合いな、子どものように嬉しそうな笑みを浮かべて立ち上がり、セシ公は静かに部屋を出て行った。
「私に…賭ける…?」
おそらくは、今ラズーンはとても不利な状況にあるのだろう。
長らく続いた安寧は人々から危機に立ち向かう気概を奪い、自らの抱えている問題が何なのかを考える力さえ衰えさせている。『運命』はその人々の心の緩みにつけ込み、脅威と恐怖を見せびらかし、世界は破滅に向かいつつあるのだと思い込ませて動揺させ、『運命』が描いてみせる、ありもしない幻の享楽と繁栄へと駆り立てている。
その実は、『運命』こそが脅威と恐怖の源、自分達だけが生き残るために全てを食らい尽くしていこうとしている。だが、それを語るためにはラズーンの真実の姿を明かさねばならず、それが新たな不安と争乱の種となりかねない。
そういった事情を薄々察知しているはずのセシ公が、いや、そういった事情を十分に理解しているはずの『太皇』もまた、ユーノに賭ける、という。
(こんな私に)
いつまでもレアナに対する揺らぎを抱えたままの。
時にレスファートに詰られ、イルファに叱られるような。
そして、アシャのことさえ、想い切れない弱い心の。




