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「そう、だったの……」
レアナは深々と溜め息をつきながら、ユーノの手首に包帯を巻いている。
「それで、こんなに傷が増えて…」
剥き出しになった腕に縦横に走る白い傷痕を、痛ましそうな顔で眺めながら眉をひそめる。
「女の子なのに」
どこか母親じみた懐かしい声音で悲しそうに呟く、まるで世界の悲劇を見せつけられたように。
(女の子なのに?)
そのことばを、ぽかりと虚ろな胸の奥で繰り返して、ユーノはぼんやりと瞬きした。
レアナは今ユーノの両腕の傷の手当をしてくれている。だが、見ているのは両腕だけだ。この傷だけで、これほど心を悩ませるのならば、ユーノの全裸を目にしたのなら、レアナはどう言うのだろう、と遠い感覚で思う。
「レアナ、姉さまは…」
久しぶりに呼んだ名前は妙にぎごちなく口を滑り、見知らぬ他人の名前のようだった。
「どうして…ここに」
「それがね、ユーノ」
ともすれば黙りがちになるユーノを促しつつ、ラズーンまでの旅のあらましを聞き取ったレアナは、問いに応えて、ガデロに来るまでの経緯を語った。
皇宮に急使が来たこと、ユーノが高熱にうなされてレアナを求め呼んでいると聞いたこと、渋る両親を説得してセレドを旅立ったこと、通常の道ではなく、闇の中を貫く不思議な道を幾度も出入りしてガデロに着いたこと、そのとたん暴漢に襲われ、急使とはぐれ、そのまま攫われてあの城に閉じ込められたこと……。
「始めは縛られていたのよ……ほら、まだ痕が残っているわ」
レアナは白い両腕を差し上げた。滑らかな肌に赤く擦れた痕が幾筋か残っている。その筋を不安そうに視線で眺め、はっとしたようにレアナは首を振った。
「でも、こんなことは何でもないわね、だって、ユーノ」
その腕でぼうっとしているユーノの頭を抱き寄せる。
「あなたはもっと酷い傷を受けているんですものね。あなたの方がつらい旅をしてきたんですものね」
「……」
(つらい、旅)
甘く柔らかな声音で呟かれたそのことばは、鋭くユーノの心を貫いた。
つらい旅と言うのですか。それをあなたが言うのですか。どうしてあなたはそんなに優しいのですか。
問いかけは次々と口に出せないままに心の中で砕け散っていく。
たとえ口にしたところで、ただの一つも解答を得られない類のものだろう。質問している内容は、レアナには『想像できるよりずっと外側の出来事』でしかないだろう。
「…は…はっ」
我知らず小さく笑って、ユーノは体を起こした。
「大丈夫だよ、姉さま」
にっと笑って見せる。
「私は強いの。姉さまは心配性だね。これぐらいのこと、何でもないんだから」
「でも…」
レアナは優しく目を瞬いた。
「そんな傷があっては、ドレスが着にくいでしょう?」
「……ははっ…」
邪気のない問い、レアナの暮らしている世界を思えば、ごく当然の疑問、けれどもそれは、ユーノが生きている世界が姉の生きている世界とどれほど隔たっているのかを知らせた。
「何言ってるんだよ、姉さま」
胸の奥に虚ろな脱力感が過るのを無視する。どう説明してもわからないのだろうという確信に気づかないふりで、強いて元気に答える。
「私,元々ああいうの、嫌いなんだってば。こういう服の方が」
着替えた草色のそっけないチュニックを引っ張る。
「好きなんだ……動きやすいしね」
「そう…」
不得要領な顔でレアナが頷く。控えめにユーノの姿を眺める瞳がそっと語る、それでもユーノ、その姿はとても皇女のものではない、と。
「それより、セアラは元気?」
「ええ、シィグトとじゃれてるわ」
「母さまは?」
「穏やかに過ごされているわ」
「父さまは?」
「変わりなく、よく治められててよ。ゼランの事は悲しまれたけれど…」
「ああ……そうだね」
レアナは気づいているだろうか。娘であるユーノが危険な旅に出ている間、家族は『変わりなく』穏やかに過ごしているという意味を。ゼランはユーノのごく近くに居た男だった。その男が裏切り者であったことを知らされたのに、ユーノを襲ったかも知れない危険を案じなかったという現実を。
ましてや、その裏切り者の末路を『悲しんだ』と、ユーノに言うのだ。
自分の笑顔が保てているのか、ユーノは自信がなくなった。遠く離れたラズーンで、家族はここから祖国の距離よりも遠くに居るのだと、改めて思い知らされた気分だった。
「ユーノ」
扉の向こうで声が響き、ゆっくりと開いた戸口から、紫の衣に身を包んだセシ公が姿を現した。レアナに軽く会釈して、ユーノの側に歩み寄る。
「医術師が帰ったが……アシャの容態はあまり良くない、と言っている」
「っ」
びく、と体が震えるのを止められなかった。顔が表情を失ったのがわかる。だが、あえて口を開かず、ユーノはセシ公のことばを待った。
「だが、今夜を何事もなく越せば、大丈夫だろうとのことだ」
「ああ…」
吐息を漏らした。
(感謝します)
ユーノはどこへともなく祈りを捧げる。
(感謝します、まだ力を注げる時間がある)
既に打つべき手は打ってある。後はアシャの体力勝負、ならば少しは安心できる。旅の空の下、アシャの頑丈さはよく知っている。あれほどの傷で、それでも今夜一晩さえと言うのなら、かなり期待がもてるはずだ。
「側に付き添われるか?」
「あ…」
セシ公が瞳に複雑な色をたたえて尋ねてくれ、ユーノは動揺した。
もちろん、側に付き添いたい。傷ついたアシャの休息を妨げるものがあるのなら、この手で全て排除したい。だが。
「私、は」
「セシ公」
ユーノのことばを遮って、厳しい表情になったレアナが進み出た。
「私に付き添わせて下さい」
「しかし」
ちらり、とセシ公がユーノを見遣ってことばを濁す。
「あなたとて、つい先ほど起きられたばかりでは」
「ユーノは怪我人です。この子も眠らなくてはなりません」
一国の皇女の威厳がレアナの言葉尻にほの見えた。
「それに……アシャは私達の命の恩人です」
すうっとレアナの白い頬が上気する。はにかむような響きが口調に混じる。
「私が付き添います」
セシ公は問いかけるような視線でユーノを見た。その眼を一瞬見返し、けれどすぐに目を伏せ、ユーノは無言で頷いた。喉に詰まりそうな想いを一瞬で押し込み、顔を上げ、打って変わって明るい口調で応じる。
「じゃあ、姉さま、お願い。私、実はもう眠くて…」
「ええ、わかったわ、ユーノ」
すらりと立ち上がったレアナがユーノの頬に軽くキスして続ける。
「心配しないで。アシャは大丈夫よ」
「…それでは、レアナ姫」
セシ公がするすると退いて、扉を開けた。いつの間にか、そこに、神妙な、けれどどこか嬉しそうな顔をしたバルカが控えている。
「この者がご案内します」
「お願いします」
セシ公公邸に来てから与えられた純白のドレスの裾を鮮やかにさばいて、始めからここで暮らしていたように、レアナは部屋を出て行く。
ぱたり、とその背後で扉が閉まる。簡素な飾りを施した木製の扉が、まるで世界を隔てる力があるもののように思える。




