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「ユーノ!」
「!」
唐突に手を引っ張られ、ユーノは姿勢を崩した。そのままアシャと一緒に近くの草むらの中に倒れ込む。その体をアシャが強く抱きかかえて転がる。
「アシ…」
「しっ」
アシャは鋭く制して、より深くユーノの体を抱え込んだ。息を潜め気配を断つ。促されたわけではないが、ユーノも同様に息を殺した。
2人からほんの少し離れた場所を、魔物は速度を上げて這いずっていく。巨体に押しつぶされ巻き込まれて凄絶な悲鳴を上げる兵士達、血の匂いに酔っているのだろう、魔物はひたすら前方へ進んでいく。
「橋を!」「橋をぉお!!」
絶叫と懇願の中、橋がようよう降ろされる。恐慌をきたして一塊になった兵士達が雪崩を打って詰め寄せる。渡り切れた者はよし、後から後から来る者に押されて叫びながら堀に落ちる者もいるのだろう、派手な水音がたて続けに響く。
「ぎゃあっっ!」「うぉおお!」
僅かに残った灯火の明かりで、走り抜けていく兵に導かれるように魔物が門を潜って橋を渡っていくのが見えた。ぎらぎら光る鱗が波打ち、脚の遅い兵を掘割へ追い落とし、あるいは跳ね飛ばしながら進んでいく。通り過ぎていく場所には無事な兵は残らない。痛みに叫び、次第に弱々しい呻きになり、やがてすぐに何も声を立てなくなる者がごろごろと木っ端のように残されていくだけだ。
騒ぎは次第に外へ外へと広がっていった。情報が伝わるよりも魔物の進行の方が早いのだ。橋を降ろしては終わりだと気づく前に、必死に助けを請う兵士達の声に応じてしまう。
三重の守りは内側から次々と魔物に食い破られて開放されていく。悲鳴と怒号が、まるで同心円を描く波紋のように遠ざかっていく。入れ代わりに、ひたひたと静寂が押し寄せる、まるで死の休息のような重い闇を伴って。
「……」
喧噪が遠ざかる中、ユーノは、もう一つの音を耳の奥に谺させながら、じっと聞き続けていた。
とん…とん…とん…とん…とん…とん…とん…とん。
途切れることなく、速まることもなく、規則正しい柔らかな音色で響き続けている。
(アシャの…鼓動…)
体を包んだ温もりが、危険に緊張し痛みに麻痺していた心を溶かしていく。指先にしつこく残っていた微かな痺れを解きほぐしていく。
それは、いつか夢の中で庇ってくれた人の姿にも似て、ユーノを憩わせ護り続けてくれる静かな音色だ。甘くて、柔らかい。
「…っ」
ふいに胸が引き絞られた。
このままずっと、ここに居られたら。
温かな腕の中でずっと、安心して休めたら。
それは何と幸福な人生だろう。
だが……だが。
「、んっ」
滲みそうになった涙を首を振って払った。蕩けそうな体を起こそうとする。ぐっ、とアシャの腕に力が籠る。動くな、そう言いたげに、ユーノの体を軽く羽交い締めにする。
「…大丈夫だよ、アシャ」
声が震えそうになるのを隠して、ことさらはっきりと口を動かした。
「魔物は囲いを突破したよ。もう行けるはずだ」
巨大な破壊神が通り抜けた後、誰が再び橋を上げようとするだろう。破滅は内側からやってきたのだ、守るべきものが残っていようはずもない。橋は降ろされた状態で放置されているだろう、無数の死骸を載せ、生臭い血肉をこびりつかせたままに。
「…そう…だな」
アシャは低く答えた。だが身動きしない。逆に疲れたように上げかけた顔を伏せ、目を閉じる。
「アシャ……?」
鼻先を掠めた臭いを今の今まで気づかなかった。余りにも周囲に多くの血が流れていたせいか。
「アシャ、どうし……!」
不安に無理矢理引き起こした体、そのユーノにアシャがぐったりと崩れてきてどきりとする。今まで重なっていた胸が少し離れ、隙間にねっとりとしたものが流れ落ちる感触に総毛立った。左手は別の場所にある。ユーノは体に傷を負っていない。ならばこれは。
「アシャ!」
叫んでアシャの肩を掴む。
「あなた、怪我してるのっ?!」
のろのろとアシャの頭が動いた。気怠そうにユーノを上げた瞳が、今まで見たこともないほど朦朧としている。乱れた金の髪の下の顔は、いつの間にか蒼白になっていた。色を失った唇がゆっくりと動く。掠れた声がかろうじて聞こえた。
「悪いな……限界……越え…」
「アシャ!!」
ふ、とアシャの体から力が抜けた。糸が切れたように落ちる首、顔を埋めて金髪が舞う。受け止めたユーノの手がぐっしょりと濡れた服に触れる。
「アシャ?! アシャっ?!」
必死に探っていくが、どこまでもどこまでも服は濡れている。そればかりではない、今もまだしみ出してきている液体は、乾く気配さえなく生暖かく、押さえた指先を伝ってユーノの手首に滴り落ちてくる。
(傷? どこ? 胸? どうして?)
体が震え出す。頭が加熱しているのに、四肢は冷えきって思うように動かない。
(いつから? どこから? なぜ?)
そんなことをしても意味はないのに、虚しくアシャの体を探り続ける。凍りつきそうな思考を重ねて、必死に思い出そうとする。
(会った時はどうだった? 走っていた時は? 抱えてくれた時は?)
だが記憶は掴もうとする度にあぶくのように消える。傷を確かめ止血しなくてはならない、そうわかっているのに、手が動いてくれない、視界がぼやける、息苦しくなって、叫び続ける。
「アシャ、アシャ、しっかりして、しっかりしてよ…っ!」
返事がない。身動きしない。反応のなさに思考を砕かれる。
(誰か、誰か、誰か)
流れ出す血に塗れながら呼び続ける。
「アシャっ! アシャっっ!!」
「ユーノ?!」
崩れた相手を必死に抱きかかえる耳に声が届いて、弾かれたように顔を上げた。
塔の基部、破壊され尽くしたような壁の一部の穴から出て来たイルファが目に入る。肩にレアナがしっかり抱えられている。続いて、バルカ、リヒャルティに肩を貸しているギャティの姿。
「いやー、魔物が通った跡を見つけてからは楽だったが、永久に迷路に閉じ込められるのかと……どうした?」
豪快に笑いかけてきたイルファが、ユーノの様子に気づいたのだろう、訝しげな顔で急ぎ足に近寄ってくる。残り3人もそれぞれにやってくる。
(みんな、無事に…)
大丈夫だった、そう思った瞬間、ユーノの何かが切れた。
「あ…」
首を振る。全身が勝手にがたがた激しく震えていて、ことばが出ない。ぼろぼろと零れ落ちた熱いものが顔を濡らす。視界が一気に晴れる、晴れて後、膝にかかった重さに絶望する、その重さがどれほど死に近いか知っているが故に。
「…シャ…が……っ!」
歯の根が合わなくて声がでない。震えが止まらない。
「アシャ?!」「どうしたんです、星の剣士!!」
駆け寄る仲間の速度が上がる。渾身の力で抱き締める、失われる命を引き止めるように、振り絞って叫ぶ、遠ざかる魂に届けと。
「…い…やだぁ……ぁっ………アシャぁ……ぁっっっ!!」




