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「アシャ!」
イルファ達と離れてそれほどたつまでもなく、ユーノは、間近に魔物を引きつけて駆け下りてくるアシャに出くわした。
「ユーノ! 大丈夫か?」
「大丈夫、それよりどうする?!」
すぐに向きを変え、一緒に駆け下り始める。背後で壁にぶつかりながらずり降りてくる魔物の激しい物音が響き、振動が足下の石段を崩しかねない強さで伝わってくる。
「決まってる」
にやっとアシャは不敵な笑みを広げた。甘い顔立ちが一気にきな臭くなる。
「こいつを利用して、ダイン要城を突破する!」
「だと思った!」
でなければ、アシャともあろうものが、こんなにのろのろと追い回される一方なんてあり得ない。
「で、方法は?!」
背後から崩れた通路の欠片が降り落ちてきた。魔物は階段も通路も砕きながら這い降りてきているらしい。内部にかなりの補強がされているとは言え、へたをすれば、下に着くまでに塔そのものが崩れ落ちかねない勢いだ。
「この調子じゃ、ここもそれほど保たない。来る途中に小さな入り口があっただろ」
「あった、かな」
ユーノは必死に駆け下りながら慌ただしく頭の中を探る。昇ることに手一杯で、とても周囲の壁まで十分には観察していなかった。
「そこへ走り込む。そこからなら、こいつを塔の外へおびきだせるはずだ!」
「イルファ達はどうするの!」
「イルファーッ!!」
普段のアシャからは想像もつかない大声が響き渡った。空気がびりびり震えるほどの声、しかも明瞭に通る。すぐに、なんだあっ、と応じる声があった。
「そのまま塔の下まで駆け下りろ!!」
少し息を吸い込む。
「魔物はこっちで引き受ける!!」
「わかっ…た…あ…!」
イルファのがらがら声が、かなり遠くから聞こえてきた。もう基部ぐらいにまで駆け下りつつあるのかも知れない。
なおも階段を駆け下りていくと、突然アシャが左側を示した。
「そこだ、ユーノ!」「うん!」
ぽかりと口を開けている穴、確かに人一人は優に通れる。しかも下からでは、ちょうど曲がり角の石組みと凹みにごまかされて、容易に見つけられない代物だった。
アシャが駆け込む。一息おいて、ユーノは魔物を振り返り、息を呑んだ。
「あれ、って」
橙がかった銀色の鱗をくねらせる巨大な蛇、だがその眼と眼の間にある顔にユーノは目を吸いつけられた。よくよく見れば、全く普通の男の顔なのだが、異形の中にあることで一層狂気を帯び、存在する今この世界が悪夢のように思えてくる。
「ユーノ!」「あ、つっ!」
来ないユーノに訝ったのだろう、戻ってきたアシャが左手首を掴んで引いた。腕に走った痛みにユーノが思わず声を上げる。ぎょっとした顔でアシャが手を離した。
「どうしたっ?」
「何でもない、ちょっとドジっただけ、ごめん」
急いで腕を取り戻し、ユーノは背後を振り返る。気のせいか、少し物音が遠ざかってしまったようだ。
「アシャ、あいつ間違いなく私達を追ってくるだろうか」
「ああ…」
アシャが唇を歪める。
「魔物は血の匂いが好きだからな」
「血の匂い…」
リヒャルティも怪我をしているかも知れない。万が一にもそちらに引かれて這い降りられては取り返しがつかなくなる。
「ユーノ?!」
戸惑うアシャを横目に左手首に巻いていた布を解いた。止血しかけていた傷口が乱暴に引き開けられて再び出血し始める。手首から指へと伝い、床に散る血を入り口まで戻って振りまき、駆け戻ってくる。
「これで間違いなく、あいつはこっちへ来るよね!」
追いかけてきたアシャに振り向き、頷いた。
「早く行こう、アシャ!」
「あ、ああ!」
塔の明かりのせいか、菫色に見える瞳が驚きに見開かれている。少し開いた唇がこんな時なのに艶かしい。
「こっちだ!」
逡巡は一瞬、すぐにアシャは身を翻した。厳しい顔で先に立って通路を走る。
始めは一本道だった通路は、すぐに隘路が増え、枝分かれし、複雑に入り組み始めた。壁に取り付けられている灯火は階段よりも一層間隔があいていて、並の人間では見ている間に道を失い、魔物に追いつかれて餌食となることだろう。斜めに下り降り、時にやや駆け上がり、くるりと回り、また反対に回り込む道を、アシャはためらうことなく、過つことなく、外への道を見つけ出していく。
「ここは右だ!」「わか、った!」
息を切らせながら、ユーノはようようアシャに付いて行く。遠ざかっていた魔物は、ユーノ達の進む方向を見つけ出したのだろう、ばきっ、がきっ、どすっ、ずざざっ、と絶え間なく擦りつけられ、砕かれ、削られる音がじりじりと距離を縮めてくる。
「そこだ、外に出る!」「んっっ」
頷き、アシャが飛び出した後に続いて、ユーノは必死に飛び出した。
夜のせいで、城のどこに出て来たのかよくわからない。暗い内庭、所々に灯された火の側に居た兵士達が、一斉にはっとこちらを振り向く。
剣を抜き放ち、ユーノ達を迎え撃とうとした彼らはしかし、ユーノ達の後ろから、城そのものを打ち壊しかねない勢いで出口を破り、顔を突き出した魔物に凍りついた。
「バール…将軍!」
誰かが魔物の眉間に張りついた顔に気づいたのだろう、喉が潰されたような声で叫ぶ。
「お、おうっ…」
どよめきと恐慌が兵に走った。
構えた剣では太刀打ちできない、そればかりではない、バール将軍の顔が苦しげに瞬きし、銀の鱗から身を引きはがそうとするように揺れて、その継ぎ目からたらりと垂れ落ちた雫が地面に落ちたとたん、
「ひ、いいい…いい」
掠れた声がバール将軍の顔の干涸びた唇から響いた。
「う、うわ……っ」
「何であんなことに…っ」
「誰が、ドーヤルか!」
「いやあいつがバール将軍を食ったんだ!」
耐えかねたような叫びにぞわぞわとした恐怖が満ちた。
自分もまた、魔物の餌食となったが最後、自分で死ぬことすら奪われて、魔物の鱗に張り付けられる身となるのかも知れない。
「た…助けてくれえっ!」「うわあああっっ!」「橋を降ろせ橋を早く!」
辺りは騒然となった。もう誰もユーノ達のことを気にしている余裕はない。
さしものダイン要城の兵士も、主の酷い末路を見せられて、なおも闘志をかきたてられる剛の者はいなかった。我先に橋の方へ遁走する。互いに押し合いへし合い、小突き合い殴り合い、つまりはお互いの体に傷をつけつつ、橋へ向かう。
魔物はそれに反応した。
次々増える血の匂いに、獲物が居るのだと確信したのだろう、速度を上げて逃げる兵に襲い掛かる。




