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「リヒャルティ!」「危ないっ!」
吹っ飛ばされ叩きつけられ、唇から流れた血を拭う間も惜しんで、リヒャルティは床を蹴り、魔物に飛びかかった。バルカ、ギャテイも声を上げて後を追う。
カッと開いた魔物の口には白銀の牙が二重に並び、暗く深い喉と舌がひくひくと痙攣する中へリヒャルティの体が吸い込まれる、と、その場に居た誰もがそう思った。アシャは舌打ちしながらレアナをイルファに委ねて短剣片手に走り寄ろうとしていたし、イルファはレアナをしっかりと抱き上げ、背後の入り口に向かおうとした、その矢先、びくんと魔物が体を硬直させた。同時に魂消るような絶叫を上げて身悶えする。
「ギャアアアアアアア!!」「うっ!」
「しめたっ!」
体をよろめかせるドーヤル老師、歓声を上げるリヒャルティの剣先が、その肩をざっくりと切り裂く。だが、
「ぬおっ!」「がっ!」
ドーヤル老師は手にした杖でリヒャルティを殴りつけた。衝撃に吹っ飛んだ相手を踏み潰させようと、声を荒げて魔物に命じる。
「行け! 行くのじゃ!」
その肩から何とも不気味などす黒いものがにじみ出て、魔物の鱗に流れ落ちていく。
「リヒャルティ!」
床に叩きつけられ、半分気を失ったように身動きしないリヒャルティを、バルカが滑り込み、身を挺して救い出した。ギャティに渡して転がって逃げる、すぐ後をずりずりと、次第に速度を上げながら迫る魔物の赤黒い毛の中から、突然しゅっと白いものが伸びた。伸縮自在な鞭のように、触手が床に転がったバルカを追い、その足に絡みつく。
「っ!」「ふ…」
一陣の風のように駆け寄ったアシャの腕が一閃した。同時に触手がわらわらと空に浮き、次の瞬間、空中で細切れになってぽとぽとと床に散る。
「すげえ…」
バルカが感嘆の声を上げ、続いて空気に溶け入るように天井近くまで飛び上がったアシャを目で追った。翻る金の髪、優しげな面立ちは歪むこともなく整ったまま、剣を扱うには細すぎるように見える腕が、まるでそれ自体が生きている武器であるかのようにしなって伸びた。
「ぐあああっっ!」
ドーヤル老師がどす黒い血が噴き出した片目を押さえて仰け反る。その背後で、柔らかな風に舞う羽毛のように、アシャがふわりと床へ舞い降りる。
「『氷のアシャ』、か!」
リヒャルティを引きずるように出口へ走りながら、ギャテイが身を竦めた。
「敵方だったら首括った方が早いって噂は本当だな!」
「らしいぜ、走れっ、ギャテイ!」
「わかってる!」
今や、制御する主を失った魔物は狂乱し、本能の赴くままにアシャ達を追い求めて疾り出していた。一番しんがりを務めるアシャが、時間稼ぎにと幾筋かの光のように見える小剣を投げる。だが、それは鱗に弾かれ、毛の間に呑み込まれてほとんど効果がない。むしろ、魔物の狂気の火に油を注いだ状態、黒い瞳が憎しみを宿して滾るように燃えている。壁さえも打ち壊そうとするように、全身で出口へ突進してくるのを間一髪、出口を飛び出して避けたアシャが舌打ちして叫んだ。
「下へ逃げろ! こいつは壊すことしか思いつかんようだ!」
「壊すことしか思いつかん、だとさ!」
ギャティがリヒャルテイを抱えて必死に階段を駆け下りながら叫ぶ。
「さすがアシャだよな!」
転がる屍体を飛び越えたバルカが叫び返す。
「言うことにも余裕があるってもんだ!」
「実際その通りだろ!」
先を走るイルファが喚く。肩に担いだレアナがかろうじてイルファにしがみついている。
「少なくとも、作ってはいないぜ!」
「作ってはいない、だとよ、ギャティ!」
バルカがうんざりした声でぼやいた。
「この修羅場で並の神経じゃねえな……星の剣士っ?!」
「ユーノ!」
「この先は無理だよ!」
下から駆け上がってきたユーノと、あわや鉢合わせしそうになってイルファが立ち止まった。慌てて残りも駆け下りかけたのを踏み留まる。
「無理? どうして」
イルファがさすがに息を切らせながら唸った。
「下にも魔物の体があって」
ユーノがひょいと肩を竦める。
「そこに剣を突き立ててきた…そしたら、ね。アシャは?」
「もっと後ろの方だ。この騒ぎはお前のせいかよ」
イルファが顔をしかめた。
「相談もなしにいきなり無茶なことをするから、上じゃとんでもねえことになってるんだぞ、そもそも兵法というのはだな」
「姉さまっ」
急いでユーノが覗き込んだレアナは、ついに限界を越えてしまったのだろう、イルファの肩でぐったりと気を失ってしまっている。流れ落ちる茶色の髪をそっと掻き分け、蒼白い顔ではあるものの、怪我一つしていないその姿を確かめて、ユーノは、ほ、と小さな溜め息をついて身を翻した。側を擦り抜けて駆け上がっていくユーノに、イルファが慌てて振り返る。
「どこへ行く気だ!」
「姉さまを頼むよ、イルファ!」
「お前は?!」
「魔物を倒す!」
「倒すって…おい、おいっ!」「ユーノ!」「星の剣士!!」
無茶です、と続いた声は遠ざかる小さな背中に届かなかった。