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「バルカ! ギャティ!」
きびきびと、アシャの声が剣戟の音を貫いて届く。
「レアナを地下道へ!」
「あいよっ」「わかってるっ!」
異口異音、だが驚くほど見事に声を合い重ねて、2人が身を翻した。押し寄せてくる敵の手練を、イルファ、リヒャルティ、アシャの3人が懸命に防いでいるうちに、背後に庇われていたレアナに駆け寄る。レアナの肩を抱えるバルカ、先に立って血路を開くギャティ、5人とも一糸乱れずの呼吸で、ついにレアナ奪回成功かと見えた、その時、
「うわっ!!」
「どうした?!」
先へ走ったギャティが慌てて駆け戻ってくる。問いかけたバルカの顎ががくりと開いた。身動きすることも忘れ、こちらへ向かってくる『それ』に、魅入られたように立ち竦む。肩を抱えられて泣きそうな顔で逃げていたレアナが訝しく顔を上げ、次の瞬間目を見開いて悲鳴を上げる。
「きゃああああああっ!!」
「っ!」「レアナ!」「何っ!!」
絹を裂くような叫びに、イルファ、リヒャルティ、アシャは振り返った。地下道の入り口から飛び出してくるバルカとギャティ、蒼白になったレアナに、何事かと尋ねかけたリヒャルティの眼が剥き出される。同じく、逃げて来た3人の真後ろまで迫ってきているものを認めたイルファが、何か喚こうとして声にならぬまま、虚しく口を開閉する。
その衝撃は、ダイン要城側の兵士にとっても同様だった。今の今まで、戦場につきものの、ありとあらゆる罵声と怒号、悲鳴と呻吟に満ちていた私室は、いきなりシンと静まり返って、『それ』が地下道の口から、ぐっ、と頭を押し入れてくるのを見守るばかりだ。
「……ドーヤル老師」
ただ1人、アシャだけがことばを紡ぐ。
ガララッ、と『それ』が頭を押し入れるに従って、地下道の口が崩れ、部屋の中に土埃がもうもうと舞う、それでも人々は動こうとしない。
『それ』はどう言えばよいものだろう。
形は人の何かのようでもあり、けれど、人であるとはとても言えない。
途轍もなく太い腕ーー直径が優にイルファの背丈ほどあるーーのように、筋肉状のものが絡み合いくっつきあい糾われたような巨大な長い体躯、表面は鈍い光を跳ね返す橙がかった銀の鱗で覆われている。それはしかし、床に接しているところでは、赤黒いごわりとした長い毛に変わっていて、床を這いずってくるたびに何とも言えぬ不快な音をたてて、ずるり、ずるりと進んでくる。
見方によっては、その輝く橙がかった銀の体は、この世ならぬ生き物の常で、ある意味美しいと言えたかも知れない。体躯の先の、丸い、やはり同じような色の鱗がみっしりと並んだ頭部も、そこに広めの間隔をおいてついている、黒々と濡れた二つの眼も、美しいと言えなくもなかったかも知れない。
だが、その眼と眼の間にあるものは、決して『美しい』という次元のものではなかった。
仮面のように蒼白い人の顔。
それも名高いバール将軍の顔が、かつて周囲の敵を睥睨し頑強に引き締められていたはずの輪郭を、回りの鱗に溶け込ませるようにしてべったりと貼りついている。苦しげに眉を潜め、無念に唇を歪め、誰かが彼の人の屍体から、このような戦利品を持ち帰ったのだと思われるような顔、だがしかし、もっとぞっとすることに、『それ』はぴくぴくと瞼を引き攣らせ、ゆっくりと口を開く。
「う…あ…」
「あ…」
限界が来たのだろう、ふわりとレアナの体が倒れ込む。とっさにアシャが彼女を抱き止めた瞬間、意味をなさぬ叫びがダイン要城の兵士の間に沸き起こった。
「う、わああああっっ!!」「おおおお!」「わああっ!!」
恐慌が起こった。剣を捨て、友を殴り、我先に何としてでもこのおぞましい空間から逃れようとする。
「逃げずともよいわ」
ぐううっ、と部屋に首を突っ込んだ魔物の背中から、嗄れた声が響いた。のっそりと動く黒衣の中から、ドーヤル老師の顔が覗く。
「お前達の主の顔じゃ、何も恐れるものでもあるまいに」
にんまりと嗤った皺だらけの顔の中に、輝く瞳は魔の紅、碧の色はどこにもない。鈍く光る銀の鱗に包まれた腰がうねうねと異臭を放ちながら蠢く。
「ぐ…ふ」
バルカが空嘔吐きに喉を鳴らす。ギャティがよろめいた足を踏み直す。
「バール……将軍…」
吐くような呻きを漏らしたリヒャルティは、臆することなくドーヤル老師を睨みつける。しなやかな四肢に漲っていく怒り、握り込まれる拳、体中の毛を逆立てて臨戦体制に入るその眼に恐怖はない。
「ドーヤル老師は将軍の側近と聞いていたが……バールもとんだ見立て違いをしたもんだな」
自分の最大の敵だと思っていた、それをむざむざ他人に屠らせた。歯ぎしりをしそうな顔が語っている、俺の獲物に手を出したのか、と。
「バール将軍」
ドーヤル老師はおどけたように白い眉を片方だけ上げて見せた。
「ガデロのダイン要城を預かる名将にしては、愚かな男だったな。儂の話に耳も貸さず、体は明け渡さぬと言いおったわ」
「『運命』…」
ぎりっ、とリヒャルティが歯を鳴らす。
「おうよ。儂の仕える王はギヌア様1人。アシャ・ラズーンもいるとはちょうどよい、ここで葬ってくれるわ!」
ドーヤル老師が黒衣に包まれた腕を広げる。魔物の眼がぎらりと光を含む。
剣を抜き放ったリヒャルティが、一声叫んで飛びかかっていく。
「許せねえ!」




