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「あ…」
掠れた声が呻いて、垂れ幕に囲まれた寝床で、白く伸びた指先が掛け物を掴んだ。引き千切るように握りしめ、身悶えして引き寄せる。噛んだ唇には紅が滲み、背けた頬は両方とも異様に赤かった。零れ落ちた涙が次々と、殴られ続けた頬を伝って、体の下の幾重にも派手な織りを重ねた布にしみ込んでいく。
まだ大人になりきっていない少女だ。悲鳴を噛み殺しながら、加えられている暴力に必死に耐えている。が、突然、小さな声を上げ、かっと見開いた目で虚空を睨み、全身を大きく痙攣させた。足掻くようにもがくように、空中へ差し上げた手が空しく闇を掻き、それもすぐに力尽きてぱたりと落ちる。
「ちっ」
鈍い舌打ちが少女の上から響き、ごそごそと人が動くがした。
「もう効いたのか」
苦々しげに唸りながら、薄絹の垂れ幕を払いのけて寝床から出てきたのは、50前後のでっぷりと太った男だ。幾重にも肉が重なった顎、女性のように垂れた乳房、ゆさゆさと揺れるほど贅肉のついた手足。裸の体をじっとりと汗に光らせ、突き出た腹も重そうに数歩進むと、ゆっくりと豪奢な寝床を振り返る。
少女の目はもう何も見ていなかった。うっすらと膜がかかったような虚ろな瞳には、死者の持つけだるげな色が満ちている。柔らかく開き、かつて数々の詩を歌って聞かせた唇は、苦痛に噛み切って流した血と、今しも体内に巡った恐ろしい毒素のために吐いた血で、鮮やかな真紅に染まっている。
「ふん」
男はその光景に微かに笑んだが、すぐに苛々した落ち着かない声を張り上げた。
「ルソン! デム・ルソン!」
傍若無人な遠慮のない呼び立てに、寝静まっていた城内が慌ただしい物音を甦らせた。遠くの部屋からばたばたと人が走ってくる気配がする。
寝床から離れた男は、裸の肩から緑地に朱と紫の鳥を散らした部屋着を羽織った。黒く光る金属で出来た椅子に腰掛け、目の前の小テーブルに載っている、華奢な水晶細工のグラスを見つめる。キャサランに特注して造らせた逸品、そのグラスの底には、薄紅の液体がほんの少し、血が滲んだような色を見せて残っている。
駆けつけて来た足音が部屋の前に立ち止まり、しばらくためらうのを、男は野太い、嗄れた声で促した。
「入れ、デム・ルソン」
「は、はい…」
扉の向こうで、か細いおどおどした声が応じた。所狭しと黒光りする金属の帯を打ち付けた頑丈な木製の扉が、ぎしっ、ぎしっ、ときしんで開いていく。よほど重いのだろう、のろのろとようやく開いた扉の隙間から、やせこけた蒼白い顔の男が、足音もたてまいとするかのように滑り込んできた、が。
「ひ」
きょろきょろと部屋を見回し、ほのかにちらつく灯火の光で、寝床の上で息絶えている少女を見つけ、息を引いて立ちすくむ。
「そう驚くことはない」
でっぷり太った男、カザドの君主、カザディノは、にやにやといやらしい笑みを広げた。
「お前がしたことだ」
「わ、私は…」
ルソンは細い両手の指を組み合わせ、がたがた震え始めながら口ごもった。
「私は…っ」
「あの薬はよく効いたぞ、デム・ルソン」
ゆったりと椅子にもたれて舌なめずりをしながら、カザディノは続けた。
「だが、効き過ぎた。これから興が乗ろうという時に死なれては、せっかくの趣向も台無し……そうは思わんか」
「王よ…」
ルソンはまじまじと、自分の主である男を見返した。
これは本当に人なのだろうか。それとも、人の皮を被った異形の何か、そう考えた方が気持ちが楽になるのではないか、迷う。
確かに、昔から色好みの主君ではあった。名のある美人、部下の妻や姉妹はもとより、近隣の少年少女を攫ってこさせては夜伽の相手を務めさせ、あげくに隣国セレドの美姫レアナをうまく言いくるめて手に入れようとまでした主だった。
もっとも、その時はセレドの第二皇女ー本当は『第一皇子』なのだろうと噂があったがーユーナ・セレディスに見事にしてやられて、狙いは果たせなかったのだが。
(しかし)
ルソンは強張った表情の裏で考える。
(それにしても、最近の我が君の様子はおかしすぎる)
今夜も、年端もゆかぬ少女を夜伽の相手にすると言い放ったばかりか、その娘に毒を飲ませよと命じた。それも、すぐ効く毒ではなく、じわじわと四肢の先から効いていき、死に至るまで長い時間を要するものをと所望された。
ルソンは医術師だ。医術師の誓いとして、そんなことはできないと一度は断ったのだが、構わぬ、それならお前が娘の代わりに毒をあおって死んでみせろと言われ、仕方なしに遅効性の毒を差し出した。
それが、事もあろうに、酒に混ぜて少女に飲ませ、死に至るまで体を弄ぶなどという獣にも劣る残虐非道な振舞いに使われるとは、夢にも思わなかった。
「ルソン」
「はい」
「あの毒は、まだ効き目を遅らせることはできるか」
「はい、只今の2倍ぐらいまでなら、おそらく…は………っ!」
素直に応じたルソンは、突然そのことばの意味に気がついて息を呑んだ。ぞおっと、無数の細かな虫が一気に体を駆け上がるような悪寒に体を震わせる。虫が走った後が、見えない毒を撒かれたように固まり冷えて、寒くなった。
「わ…、わが、君…っ」
そんな風に呼んでいていいのだろうか、この男を。
「何をうろたえておる?」
ルソンの悲鳴じみた声に、カザディノは冷然と応える。
「もしやそれは!」
「察しがいいの」
カザディノは脂でてらてらとした顔に薄笑みを浮かべる。
太古生物がもし笑ったとしたら、こんな表情をしていたのではないかと思えるような、不気味な笑みだ。
「次の夜伽には、もう少し楽しませてもらわねば」
「で…」
「うむ?」
「で、きません…っ」
ルソンはがたがた震える体全身で拒否を示した。血の気が引いた顔を必死に振る。
「医術師としての誓いが」
「ラズーンへの誓いなど、打ち捨ててしまえ」
「っ!」
君主のあまりにも大胆なことばに、ルソンは声を失った。
この世の全てをあまねく統治するラズーンに対して、何たる暴言。ラズーンに比べれば、いくら君主であるとは言え、カザディノは地方の小国の王に過ぎないのだ。
「わ、我が君っ」
しかもラズーンは鋭い『目』と痛烈な『牙』を持っている。世界に散ったそれらの感覚器は、ラズーンという司令塔に情報を集め、造反に対しては躊躇ない制裁を加えることは、仮にも一国を治める主であるなら当然呑み込んでいるはずの知識だ。
「そんなことを口にされてはっ」