9
暗い夜道だった。
冷え冷えとした夜気は剥き出しにした肌に牙をたてるほど凄まじく吹きつけてくる。凍てついてくる体を抱き締めようにも、左手は誰かが縋っている、右手は抜き身の剣を下げている。
そしてユーノは、ただ一人、黙々と漆黒の闇の中を歩き続けている。
(寒いな)
心のどこかが疲れた調子で呟くのを、ユーノは首を振って振り払った。
いっそこのまま果ててしまおうとする気持ちを、掴まれた手が引き止める。振り返れば、縋ってくる相手はセアラの幼い顔に、レアナの憂い顔に、母の涙顔に、父の心配そうな顔に、次々と変わっていった。
ずくりと心の傷が鈍痛を訴える。
(泣かないでよ)
小さく呟く。
(私のために泣かないで)
わかっているんだ、と声にならない呟きを続ける。
このまま夢も見ずに眠り込めば、この寒さだ、すぐに凍死するだろう。それは、或いはこうして、指先の感覚を奪っていく冷風に身を晒して歩き続けるより、楽なことかも知れない。いや、数段苦痛はましだろう。
だが、そうした時に、ユーノの左手に縋って歩き続ける人々が、どれほど悲しむかもよくわかっていた。
父母の保護は諦めている。誰からも守ってはもらえないことも、嫌になるほど悟っている。けれど、もしユーノが死んだら、父母は嘆くだろう。姉は悲しむだろう。妹は泣きじゃくるだろう。自分が倒れることより、そんな想いを家族にさせることの方がやるせなくて辛い。
だからユーノは暗い夜を歩き続けている。
左手に絡む指は重く、右手の剣はなお重くユーノを縛り、そして風は真っ向から吹きつけてくる。
と、その風が一瞬止み、ユーノはぎょっとして立ち止まり、目を見開いた。
(誰…?)
近くに人の気配、どこだ?
(前?)
叩きつけてくる嵐からユーノを庇うように立つ、人の影がある。
(誰なんだ……?)
警戒するように問いかけたユーノに、影は一歩近づいてきた。ふっと温かなものがユーノを包む。手を回し、ユーノの体を背後に抱いてくれる。
(守って……くれる…?)
呆然と、信じられぬ想いで立ち竦む。
(私…を? ユーノ、を……?)
そうだ、と影は低く囁いた。肩越しにくぐもった声が答える。万感の想いを込めるように熱く、けれども穏やかに。
お前を、お前だけを護ってやる、俺の命かけて。
(金のひと…?)
それは『氷の双宮』で死にかけた時に、ユーノを果てのない夜から引きずり上げてくれた彼の人に似ていた。ユーノを抱き締めた腕に、その囁きを聞いた気がする。受け止められた腕に、その想いを読み取った覚えがある。
誰何したユーノのことばに反応したのか、影の肩あたりできらりと光るものがあった。振り返る影、突然閃いた光芒を受け、輝く黄金の髪、透けてなお悩ましく妖しい紫青の瞳。
(アシャ?!)
「!」
びくっ、と体を震わせてユーノは目を開けた。
眼前に広がる、黒っぽい岩天井、薄暗く澱んだ四方の壁、体の下の床の冷たさに、自分の現状を悟る。
(地下牢…)
咄嗟に浮かせてしまった頭をそろそろと横たえながら、ユーノは油断なく辺りを見回した。
放り込まれてどれぐらいたったのだろう。ぎっちりと後ろで縛り直された手首足首、その感覚のなさからいって、決して短い時間ではないだろう。体は地下の湿気で冷えきり、灯一つない部屋の、備品の一つと化したようだ。
「……」
ユーノは無言のまま、身動きせずに目だけを動かしていった。
それほど大きな部屋ではない。窓らしいものは一つもない。黒い岩石造りの四角い箱のような部屋、何かが絡みついた彫工を施した柱様のものが、部屋の四隅とその各間に一本ずつ、ユーノはその中の一本の前に転がされている。頭側にぽっかりと口を開けた入り口、そこから階段が地上へと繋がっている様子だ。
正面の壁には吊るされたり立てかけられたりした様々の武器が並べられているが、それが尋常一般に使われるものでないらしいことはすぐにわかる。手鎖足輪首輪は言うに及ばず、棘の巻きついたムチ、どす黒い色に染まってぎらぎらと正視に耐えない妙な形の剣に鎌、太い棘が全面に突き立つ寝台。鋭利な刃を数枚重ね合わせたような半円形の刃は、振り子のように鎖で寝台の上に吊り下げられている。
(拷問……てなもんじゃないな)
ゆっくりと目を細めた。
(いたぶり、殺すための武器……)
殺気だってくる心の隅に、ふわりと金の髪の印象が舞った。
「ふ…ぅ」
小さく息を吐く。その印象が与えてくれる暖かさに、少しの間心を休ませる。
(拷問部屋で見るにしては)
切なさを一瞬に振り切る。
(いい夢だった)
目を見開いて気合いを入れた。
見張りはいない。あのしたたかなドーヤル老師が、せっかく捕まえた捕虜の相手もせず、張り番一人も置かず、バール将軍とやらにご注進に行くはずはない。
なのに、現実、ユーノは一人で放っておかれている。ということは、ユーノ如きに構っていられない事態が生じたということに違いない。
耳を澄ませると、遥か遠くの高みで何かのざわめきが響いている。
(アシャ達がやったな)




