3
「セアラ様!」
皇宮を少し離れた、緑深い森の近くに立って、じっと足下を見つめていた少女は、背後からの声に振り返った。
姉君のレアナ様によく似ているが勝ち気そうに見える目、いささか傲慢にも感じる強い意志力を感じさせる口許、生まれながらの皇族とはまさしくセアラ様のこと、とは口さがない民草の噂だ。それを十分に知っているし、負担とも思わない。皇族であることの第一義は優しさ柔らかさではなく、危機の時に判断を怯まないことだと常々思っている。
今しも、その危機が、足下に広がっているのにセアラは表情を険しくする。
「セアラ様!」
「シィグト」
再び呼ばれてようやく顔を上げ、馬を駆り立てて追ってきた、今年18になったばかりの相手に少し笑みを浮かべた。少年はセアラの側近くまで馬を進め、飛び降りて膝を突いた。余程急いでやってきたのだろう、僅かに肩を上下させている。
「ここにおられましたか」
「何の用?」
「いえ…急にお姿が見えなくなったというので、皇妃さまがご心配なされて」
「母さまらしいわね」
くす、とセアラは小さく笑い声を漏らした。
「ユーノ姉さまなら、わざわざ探させたりはしなかったのに」
「ユーノ様は剣の腕もおありになるし、それにあなたは何と言っても一番お小さい姫君ですし…」
「シィグト」
「はい?」
「あんたって、子どもね」
「…」
セアラはちらっと横目を遣って、むっとした表情になるシィグトを見た。
「女の子のことなんて、ちっともわかってないのよ。そうよ……ユーノ姉さまがどんな想いで…」
その後は口を噤んで、セアラは目を遠く彷徨わせた。
「言わせて頂きますが、セアラ様」
シィグトはやや皮肉っぽい口調で続けた。
「ユーノ様は、親衛隊の誰よりも腕がおたちでしたし、事実、我らの誰一人としてあの方に勝てた試しはなかったのですよ。巷では、ユーノ様は剣と戦の女神の守りを受けておいでだと噂されておりましたし、今、名高き『星の剣士』(ニスフェル)とて、あの方に勝てるかどうか…」
「だからね」
セアラはまたもや、くすりと大人びた笑いを漏らした。
「あんたは子どもだって言うのよ、シィグト。ほんとにわかってないんだから」
「さらに、失礼を承知で言わせて頂きますが! 私はあなたより年上です!」
「たった、数歳、ね」
セアラは一言でシィグトの口を塞いだ。
「それより、これを見てごらんなさい、シィグト」
「え?」
シィグトはセアラの指差したものを見つめ、はっとしたように顔を強張らせた。それは間違いなく何者かの夜営の跡、燃え残りの木に灰を被せ、繰り返し踏みつけるやり方は、カザドの風習の一つ、樹霊の復活を防ぐ呪だ。
「カザドの…」
「そうね」
セアラは顔をくるりと皇宮の方に向けた。夜営跡からはもう間近、石造りながら、温かそうに陽を浴び、華美ではなくてむしろ素朴な建物は、細やかに手入れが行き届いており、その内に住む人々への尊敬と愛情が伝わってくる。
「皇宮を目の前に、どうしてカザドがこんなところで夜営をする必要があったのかしらね」
セアラは目を細めた。着ている淡い色のドレスには不似合いな、猛々しい顔をしているのだろうと思いながら、ぼそりと呟く。
「襲うのでもなく、訪ねるのでもなく」
「考えすぎではないのですか?」
シィグトは温和な表情で首を傾げた。
「考え過ぎ? 冗談はよしてよ、シィグト」
軽蔑を響かせて、セアラは応じる。
「カザドが私達を『見守る』ために夜営をし、その上にプガロを連れて来たって言うの?」
「プガロ?!」
ぎょっとした顔でシィグトがセアラを見返す。
無言でセアラは焚き火跡近くの地面を指差した。
そこには三本の指と爪がある足跡が入り乱れている。どうやら六本が一組らしく、不思議な紋様を灰の上に残していた。
「……確かに…太古生物のプガロのようですが…」
「噛まれれば、毒素が体に入り、全身が腐敗する…」
ぞくりとしてセアラは口を噤み、すぐに怯えた自分を叱咤するように早口で続けた。
「プガロを連れて来て、何もせずに帰ったのはどうしてだと思う、シィグト」
「…まさか!」
シィグトはやっとカザドの意図に思い当たったようだ。
「皇族の方々を狙って」
「それ以外に何があるって言うの」
セアラは軽く肩を竦めた。
「なのに、そうしていない……こっちの方が妙よ」
唇を引き締め、じっと夜営の跡を見つめる。
「嫌な予感がするわ」
「……」
ことばもなくセアラの視線を追ったシィグトの目の前で、一際強い風が吹き寄せ、夜営の灰を散らしていった。
カザドの夜営の灰を散らせた風は、急ぎ足に国境までやってきていた。
セレドは盆地型の地形になっており、レクスファの方向に草原となって開いているものの、その他の国とは、ほとんど丘と呼んでもいいような低い山を境として接している。
風は行き場を失ったようにくるくると舞い、やがて緑豊かな低い丘と丘の間の道を歩く眼光鋭い男達を見つけ、その体へ吹き下ろしていった。
男達は年中穏やかに暖かいセレドには不似合いな、黒いフードつきのマントを羽織っていた。4、5人の小集団、旅人にしては互いに話す様子もなく、黙々と道行きをこなしていく。風に翻るマントの下は、黒光りする金属の片々を繋ぎあわせた鎖帷子、知っている者が見れば、すぐにそれとわかるカザドの兵装だ。
男達は、影のような忍びやかさで歩み続け、やがてセレドとカザドの国境にたどり着いた。
1人の男が歩を止め、今しがた抜けて来た道を、遥か後方となったセレド皇宮を振り返る。促されたわけでもないのに、残りの兵も同じように背後をのっそりと振り返った。
「美しい国だな」
始めに振り返った男が低く呟いた。くくっ、くっくっく、と回りの男達の唇から押し殺した笑い声が漏れる。
「なあに」
1人が錆び付いた武器が擦れあうような声音で応じた。
「すぐに廃墟と化すさ、我らの支配を受けぬ限りは、な」
男の目は、ことばの鋭さとは裏腹にどんよりと濁っている。見ようによっては、既に死を迎えた者の目と見えないこともない。視察官ならば、その背後に禍々しい暗闇、『運命』の気配を読み取って身構えただろう。
「違いない」
くつくつと、呟いた男が喉の奥で嗤った。
「さあ、急がねばな」
他の1人がふわりとマントを翻す。
「少々愚かであろうとも、主は主、カザディノが待っているぞ」
「……」
残りの者は無言で向きを変え、再び沈黙したまま歩き始めた。