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日にちは少し遡る。
『運命』とギヌアに囲まれた『狩人の山』(オムニド)のアシャは、今や絶体絶命の危機にあった。
「殺れっ!」
ギヌアの声と同時に、弓に矢を番えていた『運命』が手を離した。はっとして腕を十字に交差させ、矢を防いだアシャの腕と言わず腿と言わず、刻み目をつけた鏃が削ぎ取っていく。
「!!」
苦痛に唇を噛み締めながらも、アシャはその一瞬、相手側にできた隙を見逃さなかった。雪を蹴ってとんぼを切り、雪煙で煙幕を張ると同時に、背後の『運命』に襲い掛かる。狙った一撃が違わず相手の肋骨を砕く鈍い音がしたが、相手は衝撃によろめくだけで致命傷には至らない。そこを、重ねた蹴りで相手を昏倒させて剣を奪い、アシャはギヌアに対峙した。
「ふ……ふふっ」
強張っていたギヌアの唇の両端が吊り上がる。例えようもない不気味な笑いを漏らし、次の瞬間ぴたりと止めた。
「よかろう……アシャ。ここで葬ってくれるわ!!」
拾い上げていたアシャの短剣を、こちらの胸元めがけて投げつけてくる。アシャがそれを跳ね飛ばすわけにはいかないのを知っての行動だった。
ザシュッ…。
「くっ」
異様な音とともに雪の上に鮮血が散る。歯を食いしばったアシャの目に、雪崩を打って襲い掛かる『運命』の姿が飛び込んでくる。奪い取った『運命』の剣を捨てる間も惜しく、左胸の端と腕をかなり深く抉った短剣を引き抜く。
重い音をたてて吹き出ていく血が雪を汚すのをそのままに、アシャは短剣を振りかざし、打ちかかった『運命』の黒剣に相対した。右からの剣を逸らし、左からの突きを弾く。足下から競り上がる切っ先に飛び退り、頭上から叩き降ろされた剣を受け止める。汗に濡れそぼった髪が張りついた額の下、『運命』の目を見返す。
バチッ!!
「ぎゃ!」
空気が破裂したような音が、アシャの短剣と『運命』の黒剣の合わせ目から聞こえた。同時に、魂消るような叫びを上げて『運命』が剣から手を離す。
が、既に遅過ぎた。腕を抱えて仰け反る『運命』の手首から先が、だらだらと粘液質の流れとなって溶け崩れていく。
「ええい、何をしている!」
一瞬たじろいで攻撃を緩めた『運命』にギヌアの叱咤が飛んだ。
「アシャとて神ではない! いつまでも保たぬわ! 討て討て、討ってしまえっ!!」
煽られて勢いづいた『運命』が再び飛びかかる。と、突然動きを止めたアシャの、剣を持っていない方、負傷した左腕が緩やかに広げられた。
はっとしたギヌアが叫ぶ。
「まずい! 退けっ!」
「遅いっ!」
迸るような叫びがアシャの唇を衝いた。腕が広げられるに従って、散った鮮血が空に紅の弧を描く。次の瞬間、その弧に含まれた空間が真白く白熱した。
「ぎゃあっ!!」「ぐあっ!」「げああっ!」
飛びかかった5人が空中でびくんと引き攣り、瞬時にして炭化、溶解し、雪の上に黒い流れとなって雪崩落ちた。熱と余波を受けて、やはり6、7人が倒れて呻く。しばらくもがくうちに、これもどろどろと溶けていくところを見ると、まだ完全に『運命』と同化していなかったらしい。
「え、ええいくそ! 覚えていろ!」
形勢不利と見たギヌアが身を翻し遁走するのを、アシャはぼんやりと見た。追ってとどめを刺す、それさえも考えつかないほどの疲労感、視界からギヌアが消えるとほぼ同時によろめいた体を、木にもたれて支える。だが、それで保てずに、幹の傾きに添って、アシャはずるずると滑り落ちた。真紅に染まった左手と脇腹から滴り続ける血があたりの雪を淡いピンクに染めている。あちらこちらに転がった『運命』の成れの果てが立ちのぼらせる腐臭が鼻をつく。
「ふ…ぅ…」
溜め息を一つついて、アシャはのろのろと汗で濡れた髪をかきあげた。左手が重い。この出血量ならそれほど大きな血管は傷つけていないはずだが、それにしては止血が遅い。傷を受けた直後の無茶で、深部組織が傷ついたか。
救急用の薬を探った。とにかく痛みを止め、多少の無茶は押してラズーンに戻らなくてはならない。ユーノに仕掛けられた企みを何とか食い止めなくてはならない、今ここで倒れている暇はない。
「く…」
雪に埋もれた体が冷えてなお重みを増す。傷を庇って体を起こそうとしたが空しく、アシャの意識は急速に闇に呑まれていった。




