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夜から昼、そして夜。
ほんの僅かな休憩と食事を覗いて、ユーノ達はほとんど駆け通しに駆けて、ようやくセシ公分領地に入る。
「だけどな」
蹄の音の合間にイルファの声が響いて、ユーノは少し速度を緩めてそちらを見た。
「ラズーンてな、でかい割にあんまり兵隊がいねえな」
「そうだね」
「この分領地の境にしても、見張りらしい見張りは1人もいなかったろ? いいのかねえ、こんなことで」
「ラズーンへ入るまでに検問があるからね」
ユーノはラズーンの外側をぐるりと取り巻く白亜の外壁を思い浮かべた。
「じゃ、『何かの手違い』で入っちまったら、どこ行こうと勝手ってことか?」
「うん…」
ユーノの頭に、ラズーンの外壁の中に居ても狙われる事実が甦る。入ってしまえば……誰がその人間を疑うのだろう。まず誰も疑わない。誰もが『太皇』に敬意を抱き、この統合府の支え手であろうとする者だと思われる。
(今まで平和な治世が続いていたせいか)
そう思ったとたん、ユーノは自分が人としてひどく汚れているような気がした。右肩の傷痕が痛みもないのに、疼く気がする。
(あの時は……さすがに、もうこれまでだと思ったな)
今まで何度も死にかけて来たが、あそこまで、死の黒い冠を間近に見たのは初めてだった。
それは想像したほど冷たくはなかった。だが、想像していたよりも遥かに強い虚無感、血を流し続けたせいもあったのだろうか、生命の灯が一瞬毎に揺らいでいくのをどうしようもできずに見つめている無力感が体の中に詰まって、血の流れを止めていくようで。そのまま自分が形のない何ものかへと崩れていくような気がした。
「…ん?」
「どうやら」
「おでましみたいだね」
いつの間にか、ユーノ達の蹄の音に重なって、別方向から大地を蹴りつける音が響いていた。
(右…3騎……左…2騎)
月光は今夜も明るい。一瞬隠れた月が雲間から顔を出すと、総勢5騎がユーノ達の回りをひたりと囲んでいる。
だが、それは何と奇妙な一団だっただろう。1人を残して、燃え上がるような金の鎧兜に身を固め、あまつさえ、その下はまさに紅蓮の炎の衣、夜襲の出で立ちにしてはあまりにも派手すぎる。そのうえ、4人の手には獲物一つもなく、ただ黙々とユーノ達を取り囲んでくる馬の扱い方で、かろうじて騎士らしいとわかる程度だ。
(一体、何者だ?)
ちらりとイルファを見ると、相手も同じような訝しげな表情で見返してきた。
(仕掛けてくるわけでもない……かといって、見逃すわけでもない……それに)
ユーノは、残った1人、ちょうど行く手を遮るように馬を疾らせている人間に目をやった。
おそらくは、このような状況では、他の何よりも異様に見えるだろう。
相手が跨がっているのは黒馬、闇夜さえ浅く見えそうな深い黒に、他の4人と同様に真紅の衣を纏っているのが鮮やかに映える。だが、より鮮やかに目を射るのは、その衣の下から見え隠れするすらりと伸びた白い素足で、すね当てもなく晒したその白さが眩いほどだ。獲物一つ、防具一つ身につけず、足と同じく真っ白な二の腕を見せて、馬を駆り続けている。
「女か?!」
「違う」
イルファの問いを、ユーノは言下に否定した。
(女なら、あそこまで無防備に体は晒さない)
傷つくのを避けることはもちろん、最終的に武器に使うならなおさら、体は無傷で残しておこうとするものだ。
(でも男にしては、意図がわからない)
肌を晒して何を挑発しようというのか。
鋭い目で、先頭の人間を凝視していたユーノは、ふと耳に響いた音にはっとした。ズボッ、というぬめりのある低い音。気づいたとしても、意味を考えるまでもないほどの微かな音、だが、戦いで鍛え抜かれた勘が警告音を鳴らす。
「イルファ!」
叫ぶと同時に手綱を引き、ヒストの歩みを止める。いきなり制止をかけられて猛ったヒストが棒立ちになって荒々しく嘶くのにも屈せず、ユーノは首を振った。
「だめだ!!」
「うぉうっ?!」
ユーノの叫びにただならぬものを感じたのか、やはり手綱を引き絞ったイルファが野太い声で喚いた。軽量のユーノでかろうじて残った衝撃に耐えられず、慣性に引きずられて馬の背から滑り落ちる。同時に、ようよう後ろ足で保たせていた釣り合いを崩した馬が、横倒しに倒れ込む。
どぶっ…。
(やっぱり)
はああっ、と深い息を吐きながらヒストをようやく御したユーノは目を細める。
「な、なんだあっ?! この辺一帯、ドブ泥じゃねえか!」
転げ落ちたイルファが苛立たしげに吠える。
いつの間にか2人の包囲を解いていた騎士達が、前方に居た騎士が馬首をこちらに向けて立ち止まっている場所へゆっくりと集まっていく。それを目で追ったユーノは警戒に逆立つ神経を宥めながら、ひたりと相手を凝視した。
「そうだ」
正面に居る人間が、紅のフードの下からぽつりと答える。妙に甘やかな、男とも女ともつかぬ声音だ。下半分だけ見えている顔の、淡色の唇がにやりと不敵な笑みを浮かべてことばを継いだ。
「見かけによらず勘がいいんだな。もう少しで底なし沼行きだったのにさ」
「何者だ?」
「セシ公領地の守り、『金羽根』の長」
「!」
「我が守りを侵すものは…」
ぱさりと跳ね上げられたフードの下から輝くような金髪が現れた。色白の顔は少女のようにあどけなく、笑み綻んだ唇は特別な果実の艶を思わせる。衣の色を映したような、ほとんど赤に近い茶色の瞳がぎらりと光ってユーノを射る。
「緋のリヒャルティがお相手する!」
言うや否や、まるで中空を翔るように黒馬がユーノ目指して駆け寄ってきた。いつの間にか左手に握られた短剣が、蒼い月光を跳ねてますます青白い光を放つ。
「ま…」
「問答無用!」
年の頃、まだ14、5歳か。小柄な体に凍りつくような殺気を漲らせて襲いかかってくるリヒャルティに、剣を抜き合わせるのが精一杯だった。
「いい腕だな」
相手の薄く笑った唇からピンクの舌が出て、上唇を舐める。
「『運命』にしとくには惜しい」
「『運命』だあ?!」
どぶ泥から何とか立ち上がったイルファが、呆れ果てた声を上げる。
「とんでもねえぜ……おうっと!」
反論しかけて、飛びかかってきた男の剣を避ける。
「おいユーノ! どうすりゃいい?!」
「どうすりゃって!」
ぎりっ、と歯に滲みるような苦い音をたててきしむ剣を支えながら、ユーノは困惑した。まさか、のっけから『金羽根』とあたることになるとは思わなかった。かと言って、これからセシ公の協力を得に行こうとしているのに、『金羽根』を倒してしまうわけにもいかない、が。
「話してわかる相手じゃなさそうだ!」
「じゃ、殺れってのか?!」
「何をごちゃごちゃ言ってやがる」
リヒャルテイがきらびやかな外見に不似合いなドスのきいた声で唸った。
「おらおら行くぜ!」