2
ブルッ。
馬屋でじっと首を垂れていたヒストは、ふいと顔を上げて体を震わせた。
「さすがだな、ヒスト」
伊達にラズーンまで白刃の下をかいくぐってきたのではない。主人の気配を勘づくのぐらい朝飯前だと言いたげに、額の『白い星』をこちらに向けてくるのに、温かい気持ちになる。側に寄り、首筋を撫でる。命のもつ体温が、自ら罠に飛び込んで行こうとする殺気立った心を鎮めていくのがわかる。
ユーノは少し目を閉じ、ヒストの体に頭をもたせかけた。
短いチュニックの肌触り、左脚に添って垂れている剣の慣れた重さと冷たさ、相対するヒストの鼓動する温もり。確かに生きている、今は。
(生きて50年そこそこ…)
「ユーノ!」
「……ああ」
イルファが馬屋から馬を引き出していく。目を開いて体を起こし、すぐさま走りたがるヒストを宥めながら、ゆっくり外へと連れ出していく。
夜は降るような月光に満たされていた。今の今まで雲にでも隠されていたのか、皓々と照る月は、あたりを蒼白い昼間のように見せている。
「何もかもよく見えるな」
同じような服装で、腰にリボン付きの大剣を吊ったイルファが、どっすりと馬に跨がりながら呟いた。
「恵みとなるか、禍いとなるか」
「恵みにしてみせるさ」
応えて、ユーノはヒストに跨がる。体に細かな震えが疾る。
(死んで20年そこそこ)
ひゅう、とイルファが口笛を吹く。
「大した自信だな」
「当たり前だろ」
手綱を引き締めながら不敵に笑い返した。
「はなっから負ける気で戦に行く人間はいないよ」
(そうだ、いつ死んでもいいと思っていた)
胸の声は囁き続ける。
(けれど今は)
死ぬなと引き止めてくれる仲間がいる。
「レスの奴、怒るだろうなあ」
「だろうね。けれど、絶対連れていけない」
「ああ……ったく、どうにかならんのかな、お前の行く所にどこでも一緒に行きたがって……ん?」
イルファは屋敷の入り口から駆け出してくる人影に口を噤んだ。ユーノもどきりとして口を閉じる。月光にきらきら光を跳ねる髪を見つめていて、それが巻き毛と知って2人とも力を抜いた。
「リディ…」
「ユーノ!」
馬から下りた途端飛びつかれしがみつかれて、ユーノは体を強張らせる。
「ユーノ、ユーノ、あなた」
心配そうな声が耳元で滲む。
「気をつけてね、くれぐれも気をつけて」
「リディ」
その一途さに胸が詰まった。
「聞いてたの?」
「物音で目が覚めて……怖くなってお父さまの所へ行ったら……。それでつい、立ち聞きしまったの」
囁いて身を離し、月光に透けて煌めく薄緑の瞳でユーノを見つめた。
「無茶はしないで、お願いよ。アシャ兄さまが悲しむわ」
「大丈夫だよ」
同い年ながら、瞳を濡らして小さく体を震わせているリディノが遥か年下に見え、セアラに叱られているようにも思えてユーノは微笑した。
「アシャにも散々言われているしねえ。イルファも居てくれるし、そう無茶はしないよ。それより、レスの方を頼むよ」
口にして、自分のことばに驚いた。頼む、頼むか。今までこんな風に誰かに頼んだこと、頼りにしたことなどあっただろうか。
「わかっているわ」
リディノはしっかりと頷いた。
「でも、ユーノ、本当に気をつけて」
「うん」
頷き返して馬上に戻る。心配そうに見送るリディノの視線を感じながら、ゆっくり背中を向ける。一瞬目を閉じ、息を吐く。
(本当に私はわかっているだろうか)
これから飛び込む危険を。命を失うということを。この世界の全てに別れを告げる覚悟ということを。
(きっと、わかってない)
今ならわかる。
失うものがないから飛び込めた。帰る場所がないから、どこにでも進めた。支えるものがないから、1人になっても頑張れた。
けれど今、愛おしい人が居て、帰ってこいと願われる場所があり、支えようと伸ばされた手を感じ、それらをことごとく幻にするこの瞬間を、初めて危機、と感じている気がする。
(皆、こんなふうに進んでいるのか)
アシャはラズーンを離れた。イルファは地位を捨てた。レスファートは家族を置き去った。そして、『太皇』は人と共に生きる世界を永遠に諦めた。
(アシャ)
力をくれ。
きつく唇を噛み、ぐ、っと顔を振り上げ、気持ちを切り替える。
ここからまっすぐに馬を飛ばしても、ガデロの国境まで4、5日はかかる。ダイン要城まではさらに半日、うまく進めてぎりぎりの日数しかない。
だが、ミダス公の話によれば、ラズーン四大公の1人、セシ公の分領地には、昔造られた地下道があり、詳しい走路はセシ公しか知らないが、それを使えば、地上を行くより1日2日旅程が縮まると言う。出入り口はセシ公領地内とガデロに開いており、今夜の密使もおそらくはそれを使ったのだろう、と。
『しかし、そのような地下道ならば、当然、見張りがついていたのではないですか?』
ユーノの問いにミダス公は顔を曇らせた。
分領地の統治は四大公各々に任されており、ある大公が何をしているのかは、他の大公が伺い知ることはできないらしい。四大公の動きを統轄しているのは他ならぬ『太皇』だけ……とにかく、今わかっていることは、その地下道を使わない限り、期日までにダイン要城へは行けないということだ。
「ユーノ、行くぞ!」
「しっ、声が大きいよ」
呼びかけてきたイルファを制し、急いで馬を進める。
「すまん……だが、ごちゃごちゃ考えてても進まん、そうだろう?」
「ああ、そうだ」
身を縮めたイルファの気配はそれでもやっぱり楽しげで、ユーノは苦笑した。
「行こう」
「どうぞ、お気をつけて」
背後の闇に、リディノの声が細く微かに響いた。




