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『太皇』はユーノに考える時間を与えてくれていた。
ラズーンを発つ時に、ユーノは決めたことを『太皇』に告げればいい。ラズーンには『正統後継者候補』がまだ数人居る。ユーノがセレドに戻ることを選ぶのなら、それでもいい。だが、ラズーンの『太皇』の地位を、真の意味を理解せずに虎視眈々と狙う者は少なくない。そのために『正統後継者』は多いに越したことはないし、類まれな剣の才能を持つユーノなら心強い。
穏やかに説かれて、ユーノは、もう少し待って下さい、と応えるのが精一杯だった。
(アシャは、動乱がおさまれば、セレドに行きたいと願ったと言う)
『太皇』は驚くユーノに微笑んだ。何か、かけがえのないものを見つけたのじゃろう、と。
(かけがえのないもの)
聞かずともわかる。
(アシャがセレドに行ってくれるなら、セレドは1000人の戦士の守りを得たのと同じ)
そこにユーノの居る意味はない。
僅かに微笑む自分の顔が引き攣っているのを感じる。
そして、ユーノの頭は、再びラズーンか、セレドかの間を巡り始める。
(母さまはどう思うかな)
いつも美しく優しい母だった。白い腕に抱かれた記憶のなさは、いつもユーノを責め続ける、どうして私には母に抱いてもらった記憶がないのだろう、と。赤ん坊の頃や、まだ幼い時は、確かにユーノは母の手にあったのだろうに、それからの激しい十数年間が、その甘やかな感触を散らせてしまったのかも知れない。
(喜ぶかも知れないな)
素直に、単純に。我が子が栄えあるラズーンの『正統後継者』になったと知って。そのためにユーノが支払う代償には気づかずに。レアナやセアラと揃いのドレスをユーノに作って、ユーノがそれを着るたびに噛み締める苦さには気づかずに、3人の娘を並べてにこにこ笑ったように。
愚かなだけだ、無知なだけだ、そう嗤うのは簡単だけど。
(いや……母さまのせいじゃない)
くすりと寂しく笑う。
(私があまりにも私だっただけだ)
それは何度繰り返したことばだろう。
誰のせいでもない。ただ、ユーノがあまりにもユーノであっただけのことだ、と。
旅の楽師の語った昔話の恐ろしさに眠れなくなり、1人夜じゅう、月を眺めていたのはいつの頃だっただろう。3本しか見つからなかったという珍しい花を見せられ、レアナ、セアラと配られて、ユーノに渡されたそれを母に渡したのはいつだっただろう。宮殿の柱を母に見立て父に見立ててしがみついたのは、幾つの時だっただろう。
(母さまの香水を持ち出したこともあった)
残っていた僅かな量を空にしてしまい、なかなか手に入らぬものなのにと穏やかに詰られた。それをどうしたのかと言われて、自分の寝床に撒いたと答え、すぐさま洗濯されてしまったのは、もっと哀しかった、傷の痛みにふらついて倒れ込む寝床に、温もりはなくとも母の匂いが欲しかったから。
(慌てて探しに行ったっけ)
まだ香りが残っているものはないかと捜し求めてうろうろし、父に皇女ともあろう者が情けないと叱られた。
『寝床の温もりを抱えているとは、いつまで赤子のようなことをしておるのか』
そうではないと弁解するにも、何をどう話せばいいのかわからずに戸惑い、話しようがないと気づいて落ち込み、こぶしを握りしめて俯くしかなかった、その記憶も、今にしてみれば懐かしい。
(考えれば、ずっと一人で生きていけるように、訓練され続けたようなものだな)
誰にも頼らず、何も期待せず、ただ己の力と才覚のみで生き抜いていく術を見つけようと、ずっと足掻いてきた。
(それが今に続いている…?)
苦笑して小さく吐息をつく。
そうだ、一人で生きて行くのには慣れている。だから、たぶん、この先も一人で大丈夫だろう。たとえ『太皇』となっても、何とか生きていけるだろう。
(でも……優しさ、には慣れてない)
庇われることにも慣れていない。
だから、アシャの仕草一つに他愛なく心が揺さぶられてしまう。揺れては自分を叱りつける、しっかりしろ、甘えるな、と。
なのに。
(アシャは、ずっと、優しい)
いや、ますます、と言うべきか。ユーノの拒否も抵抗も、真綿のように軽くいなして包み込まれていってしまうから、身動きとれなくなってくる。
(だからこうして、馬鹿な堂々巡りになる)
「望みもないのに、さ」
アシャは言ったのだから、レアナを守ってやりたい、と。一生かけて悔いなく相手、と。きっと今回のセレド行きもレアナに関わること……つまりは、レアナを妻にということなのだろう。
遥か彼方の大国の王子が、辺境の、それでも心優しく美しい姫に出逢い、気持ちを募らせ、ついに2人が結ばれていく、まるでお伽噺のように。
(私には、決して重なることがない、幸福で美しい、お伽噺)
眉を寄せ、軽く唇を噛み締める、と、突然ユーノは顔を上げた。
「……誰だ」
戸口に佇んだ気配に誰何する。
「俺だ」
「イルファ…」
「起きてたか……レスは?」
扉を開いて入ってきた相手がユーノの片手に目を移す。
「寝てるよ。けど、離してくれない」
「やれやれ」
イルファは大袈裟に溜め息をついて見せた。
「甘えん坊め」
「いいじゃないか。甘えられる時なんて……そう長くないんだし」
僅かに翳ってしまった声に、イルファは幸い気づかなかった。
「で、どうだった、あっちは」
「うん……ちょっと、とんでもないことになって」
「とんでもないこと?」
よいせ、とやや重い動作でイルファが部屋の椅子に腰掛ける。
「ボク、『正統後継者』になるかも知れない」
「は?」
イルファがぽかんとした顔でこちらを振り向く。いかつい顔が意外な愛嬌をたたえる。




