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その使者がセレド皇宮に姿を見せたのは、ちょうど、遠く離れたラズーンの『氷の双宮』で、ユーノが洗礼から目覚めた日のことだった。
どこからともなく現れて、馬を蹴立て、相も変わらず守りの薄い城門を走り抜け、ただ一目散に皇宮を目指す騎士の姿は、ようやくセレドの人々の目を惹き、噂はさざ波のように広がった。
辺境の方で小さな戦があると聞いたことはあっても、特にセレド皇宮の位置する中央区では緊急の使者なぞ、ついぞ見かけることはない。しかもそれが、こともあろうにラズーンよりの使者と知れるに至って、迎えた皇宮はにわかに騒然とした。
「ラズーンよりの?」
「まあ何事でしょう」
ミアナ皇妃は優しげな面立ちを一瞬にして曇らせ、次のドレスに仕立てようとしていた美しい布を選ぶ手を止めた。セレディス4世は妻と顔を見合わせ、伝令の者に軽く頷き、すぐに行くと答えて席を立った。うろたえた様子でミアナ皇妃が、青ざめた表情でレアナが続く。セアラは最近、昼間は決まってシィグトを伴って外出していることが多く、その時も不在だった。
「母さま、使者とは」
「ええ一体、何事でしょうね」
「もしや、ユーノのことでは…」
レアナがすぐに脳裏に浮かべたのは、元気よく皇宮を出て行った妹の後ろ姿だ。ひょっとして、ユーノに何かあったのだろうか。不安になり唇を噛む。
「ユーノ……、ええ」
どこかぼんやりと呟いたミアナ皇妃は、まずそれを思いつかなかった自分を恥じるように薄赤くなり、続いて慌てた口調で付け加えた。
「そうね…そうね、あの子のことかも知れないわ。あの子に何かあったのかしら」
3人が広間に出向くと、そこには既に1人の青年が控えていた。こちらの気配に上げた顔には、ラズーンからの使者に共通した、ある種の洗練された上品さと端正さがある。
「ラズーンよりの火急の御使者、何事でしょうか」
一応上座につきながらも、セレディス4世は使者に対して丁重に応じる。
「旅装も解かずにお目通りすることをお許し下さい」
使者は深々と頭を下げた。
「何分にも、セレド皇の御一子のこと、急を要すると思われますので」
「では、ユーノのことですね」
レアナが思わずと言った口調で問い正す。公的な使者の前で、皇を差し置いての詰問の非礼、だがそれを咎める気配は誰にもない。
「はい」
使者は大きく頷いた。
「私はラズーンの『太皇』に仕える視察官の一人、ジュナ・グラティアスと申します。実は、ユーノ様達ご一行は、予定よりうんと早く旅程を進められ、無事ラズーンに辿り着かれたのですが、長旅でのお疲れが出たのでしょう、ユーノ様はラズーンで病の床につかれました。食べ物、水も碌に口にされることなく寝込まれて早1週間、熱の譫言にひたすらレアナ様の御名を呼び続けておいでです」
「っ!!」
レアナは顔から音を立てて血の気が引くのを感じた。ミアナ皇妃も顔を強張らせ、何ともいいようのない複雑な顔で凍りついているようだ。
「我が恵み深き『太皇』はユーノ様を哀れまれ、すぐに私を遣わされ、レアナ様をお連れしろとお命じになりました。医術師も手をこまねいている病状では、求めておられる親愛こそが唯一命を救う手立てとなるであろう、と」
「そんなに酷い状態なのか」
セレディス4世がさすがに険しい表情で確かめる。
「ラズーンには名だたる名医も居ると聞く、それでもユーノを助けられる者がいないというのか」
「今ユーノ様を苦しめているのは、病ではない、と」
「何と」
「温かな、柔らかな、人の想いそのものであると」
ジュナは逆に問うように、セレディス4世を、ミアナ皇妃を、そしてレアナを鋭く見つめた。
「厳しい旅の果てに求めるものは、成し遂げたことを見守り喜んでくれる身内以上のものがありましょうか」
「うう」
セレディス4世が唸り、ミアナ皇妃が苦しそうに目を伏せる。反対にレアナはきっと目を見開いて、ジュナの顔を凝視した。
「どうかレアナ様」
その顔を正面から見返して、ジュナは言い募る。
「すぐに御支度を。そして私とともに、ラズーンまでご同道願います」
「レアナ…」
不安がるようにミアナ皇妃は傍らの娘を見やる。まるでそこに、もう1人、別の誰かを探すように。セレディス4世はしかめた顔を使者に、そしてゆっくりとレアナに向けた。
「父さま」
レアナは2人の視線を受け止めて、口を開いた。
「今すぐに参りたいと思います」
「けれどレアナ」
「母さま、覚えておいででしょう」
まるで引き止めるかのようなミアナ皇妃の声に、レアナは静かに言い返す。
「ユーノにセレドを背負う旅を任せたのは私達です」
あの背中に全てを負わせた時から、この国を護ったのはユーノです。
「その小さな妹が助けを求めている時に赴かずに、私がこのセレドを統治する資格を得られようとは思いません」
「うむ。まさにその通りだ」
セレディス4世は深く頷いた。
「すぐに行ってやりなさい」
「はい」
「…頼みましたよ、レアナ」
「わかっております、母さま。では、ジュナ様」
すらりと立ち上がったレアナに、ジュナは優しく微笑んだ。
「どうぞ、ジュナとお呼び下さい。お支度が整い次第、いつでもお供いたします」
短く切りそろえた髪の影で、ジュナの瞳が一瞬酷薄な光を過らせたように見えたが、レアナには、ユーノの危機にそんなことは些少なことのように感じられた。
そして、レアナはこの日、生まれ故郷を後に、初めて巨大で容赦のない世界、ラズーンへ続く世界に旅立った……何が待っているのか、想像することもなく。




