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(あの頃はまだよかった)
思い出しながら、アシャは歩を進める。
(世界は今より単純だった)
目の前の『狩人の山』(オムニド)は、行けども行けども、どこにも辿り着くことのない雪と樹木の迷宮に入り込んだかのような観を呈している。視察官の独特な方向感覚と距離感覚がなければ、自分がどこへ向かっているのかもわからなくなってしまうだろう。
「…ふ…」
白く凍る息を吐き出し、アシャは前方を透かし見た。
枯れ木のような茶色の枝を伸ばすテーノト、針を思わせる葉は雪を被り、視界をそこここで遮っている。辿っていく道はゆっくりと上へ続き、少し先で窪地に沿って下っていくようだ。消えかけた足跡はその向こうへまだ繋がっている。
(おかしい)
アシャは再び立ち止まって、周囲を伺った。
静まり返った山の中、光だけが雪の反射とともに眩く目を射る。左側には、相も変わらず『黒の流れ(デーヤ)』がたゆたいながら流れ、その重たるく物憂げな水音だけが響いている。
そこには、どのような危険の匂いも感じ取れない。
だが、アシャの長い間に培われて来た直感とでも言うべきものが、心の奥底から警告を送ってきている。
(静かだ)
それほど頂上に近いわけでもないのに、リュガの一匹もいない。森林や草原に居る『小とかげ』(リュガ)は、どちらかというと人なつっこく、人間の姿を見たからといって潜んでしまうことはない。もちろん、人に親しいという意味ではなく、もし人間が倒れていたら、それは極上の餌となるから側に居よう、そういう類の人なつこさではあるのだが。
だのに、アシャは『狩人の山』(オムニド)に入ってから一匹も見ていない。ということは、何かがリュガ達の動きを封じ込めていることになる。
その何かとは…。
「動くな、アシャ」
短剣に手をかけるのと、声が響くのがほぼ同時だった。
目前の小さな尾根の上に、雪から溶け出してきたような白髪に黒衣をつけ、目だけは驚くほど鮮やかな紅の男が立っていて、アシャを見下ろしていた。その左右に3人ずつ、槍を構え、弓に矢をつがえて、こちらを狙っている男が居る。いずれも黒衣、一目みて『運命』とわかる。
「…」
アシャは無言のまま、左右に視線を送った。真後ろに3人、その左右に5人ずつ。やはり剣をかざし、すぐにでもアシャを屠れる準備を整えた『運命』が居る。閃いた思考に苦笑し、ギヌアに向き直った。
「…狙いは『泉の狩人』(オーミノ)じゃなかったらしいな」
「まったくそうではない、とも言えん」
ギヌアは薄く嗤った。
「『泉の狩人』(オーミノ)の所へは行く予定だ……ただし、お前を葬った後でな」
「…」
アシャは思わず笑った。
いかなアシャと言えども、20人もの『運命』相手では力を開放してかからないと切り抜けることは不可能だ。
だがしかし、ここは『狩人の山』(オムニド)、聖なる山。そういった『力』の干渉を何より嫌う一族、『泉の狩人』(オーミノ)の住処だ。『泉の狩人』(オーミノ)の返答次第でラズーンの存亡が決まる今、彼らの機嫌を損ねるわけにはいかない。
「短剣を外してこちらへ投げろ。おかしなことはするな」
ギヌアの命令にアシャは無言で従った。今無謀なことをすれば、ラズーン二百年祭の計も全て水泡に帰してしまう。それは遠く、残してきたユーノ達の死を招くことに繋がってしまう。
ギヌアの足下へ短剣を投げ捨て、何とかこの状況を変化させる方法はないかと考えるアシャの耳に、ギヌアの嘲る声が届いた。
「しかし、『氷のアシャ』ともあろう者が、まんまとおびき出されるとはな」
(やはり罠だったのか)
予想はしていたが、ギヌアの口調にもう一つ不吉な感覚が過った。
「ラズーンには、今、お前の守りを失った者がいる」
(ユーノ!)
そちらへ手を伸ばす気か、とひやりとする。まさかそこまでギヌアがユーノに執着しているとは思っていなかった。
「その隙を逃すと思うか?」
「いや」
(だが、ユーノはあそこでは一人ではない)
旅の空の下とは違い、ラズーンにはもうユーノを守ろうとする仲間がもっと増えている。
アシャのそういう期待を見透かしたように、ギヌアはくつくつと嗤った。
「『太皇』も野戦部隊も『羽根』もあてにはならんぞ。……何せ、あの娘は自ら、それらの守りを振り切って出てくるのだからな……愛しい姉のために」
「レアナ…?」
彼女は彼方セレドに居る。それがなぜ今関わってくる?
訝しく眉を上げたアシャに、ギヌアはにんまりと唇の両端を上げた。それは、あたりの清冽な空気に比して、より一層禍々しく見える笑みだった。




