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きっぱりと言い捨てて、続いて薄く笑ってみせた。嘲笑うように、からかうように、怖いのだろうと揶揄するように。シートスの尻に火がつきそうになっているのはわかっている、だがここで『黒の流れ(デーヤ)』から抜けたとしても、岸辺で無惨に屠られるだけだ。仮にも野戦部隊の長をひきずりだしたのだ、読み間違えましたでは済まされない。
「く!」
こちらの視線の意味をシートスは確実に理解した。険しく逆立てた眉、ぎりっと歯を見せて食いしばった口、炎に追われる感覚から、アシャを追い込む感覚に切り替わるのに数瞬もかからなかった。
「ふ…!」
さすがだな、と笑みを漏らしかけた瞬間、ふいに速まった流れに乗った炎が一筋、右岸に沿って奔った。そちらへ視線を奪われたとたん、反対方向に人が動く気配、とっさに身を伏せ、剣を引き抜く。
キンッ!!
鋭い音をたてて、首あたりに飛んできた短剣が跳ね飛び、川面に落ちて吸い込まれた。左岸の反乱軍拠点に、いつの間にかずらりと敵が並んでいる。炎に照り返されて、こちらの姿もはっきりしたのだろう。
「シートス!」
「はい!」
危険を承知で川の中央へ馬を進める。進む速度は落ちるが、短剣の飛距離ぎりぎりだ。弓矢をつがえる者はまだ現れていない。流れに足をとられかけてよろめく馬が、泡を吹きかけのめるように前へ前へと疾り続ける。沿岸の反乱軍が混乱しながら、それでも怒号とともに岸に沿ってアシャ達を追う。
(この分だと、野戦部隊の方もうまくいくな)
「シートス、もっと行くぞ!」
「はっ」
振り返りざまに声を投げ、アシャはにやりと笑った。引き攣ったような笑みを返したシートスが、再び『黒の流れ(デーヤ)』を下るのに専念し始める。
実は彼らが『黒の流れ(デーヤ)』を下るのと少し遅れて、野戦部隊にはひそかに小隊に分かれて各拠点に近づくように指示していた。
燃え上がる『黒の流れ(デーヤ)』と、その炎を引き連れるように本拠を目指す敵の姿は、この夜の中で一番の見世物だろう。『黒の流れ(デーヤ)』を下ってくるだけでも予想外なのに、背後の炎は流された砂で少しずつ勢いを削がれているとは言え、岸辺近くの拠点の一部に火を移し、背後では拠点の消火にも人手を割きつつあるようだ。その混乱に乗じて、野戦部隊はじわじわと守りの薄くなった拠点を攻め落としていく。
「、アシャッ!」
「ああ!」
さすがに息切れしたようなシートスの声に、アシャは頷いた。
前方に黒々と渦を巻く『黒の流れ(デーヤ)』、その先に本拠の天幕が見える。今しも、伝令だろう、1人の男が駆け込み、慌ただしい物音をたてながらばらばらと人が飛び出してくる。
「行くぞ!」
渦の直前、数カ所しかない浅瀬を寸分違わず見極めて、アシャは岸に駆け上がった。続いてシートスも、渦に踏み込む直前に駆け上がり、何とか岸辺を走り上がる。背後を追ってきた炎が2人の獲物を呑み込み損なった悔しさを叫ぶように、一気に渦に流れ込み、轟音をたてて炎の竜巻となって巻き上がる、その前で。
「お前は…アシャ…!!」
「遅いっ!」
飛び出してきた男の1人、反乱軍の首領、グラッド・エステが見たのは、業火を背負い、『黒の流れ(デーヤ)』の飛沫を血痕のように浴びた馬を猛らせて、剣を振り上げている黄金の髪の少年、いや、非情で無慈悲な、性別を持たぬラズーンの神そのものだったのかも知れない。名前を口にした後は、両手を空中に差し上げるのが精一杯、一刀両断されて倒れる背後から、地面を震わせ空気を裂く、野戦部隊の雄叫びが上がった。
結局本拠の守りはそれでも固く、反乱の全鎮圧には2日かかったが、3日めの朝にはアシャはシートスと轡を並べてラズーンに戻った。
帰路、シートスはしみじみと言ったものだ。
「『氷のアシャ』というのは、女性に対して冷たいから、そう呼ばれているのだと思ってましたよ……しかし」
「しかし……何?」
朝風は爽やかだ。空気はまだきな臭いし、血の臭いが消えてしまっているわけではないが、アシャは風に髪を嬲らせ、にっこりと笑って相手を見やる。視線を絡ませたシートスが一瞬胸が詰まったような複雑な顔で見つめ返し、アシャの顔の造作を一つ一つ丁寧に眺めていったかと思うと、はあ、と深い溜め息をついて肩を落とした。
「シートス?」
「あれだけのことをしておいて、よくもそんな白々とした無邪気な顔をして笑えるものですね」
「無邪気かな?」
「……ええ、まるで、剣なんて恐ろしいものは見たこともありません、って顔ですよ」
「へえ」
くすくす笑うアシャに、笑い事じゃありませんよ、とシートスは窘め顔で続けたものだ。
「類稀な軍師の才、それを生かす冷静沈着な行動力、くわえて配下を御し切る統率力というところですかな……あなたを敵にするしかないなら、自分の屍体の始末を部下に頼んでおきましょう」……




