6
『黒の流れ(デーヤ)』は夜になると一層黒々と、ねっとりとした光をその表面に漂わせていた。
「怖いのか?」
ごくり、とシートスが唾を呑み込むのに、アシャはちらりと相手を見やった。
「怖い? この私が?」
じっと答えを待つ。
「…あなたは」
シートスは苦笑した。
「とんでもない方らしいですな。噂とは大違いだ」
「どんな噂があるんだ?」
ふわり、と風に攫われるような軽さで、アシャは馬に乗った。今夜は同じく馬に跨がり、腰の落ち着き具合を確かめながら、シートスは応じた。
「輝く美貌の持ち主、ラズーンの神の恵みを受け、楽奏に長け、才に溢れ、声音甘く、心優しく、平和と静穏を愛する物静かな少年、詩を吟じ、花を愛し、真紅の長衣に包まれた聖なる少年……」
何度も何度も聞いたことがあるのだろう、すらすらと並べ立てた相手がふいに口を閉ざし、生真面目な顔でアシャを凝視する。
「どこが?」
アシャは吹き出した。シートスは呆れ声で続ける。
「確かに見かけは噂の通りだ。いや、噂以上ですよ。だが、その性格と来たら、無茶無謀、大胆不敵、都の御婦人どころか、ラズーンの神も驚嘆されるだろう」
瞳に笑みを滲ませたまま、アシャは馬をゆっくりと『黒の流れ(デーヤ)』の中に踏み込ませた。まとわりつく異様な感触に、馬が怯えて固まり、抵抗するように嘶きながら後退する。手綱を引き締めたアシャの体が淡く金色に光る。
「よし」
低い声の促しに、馬は再び『黒の流れ(デーヤ)』に脚を踏み入れた。ぶるるっ、と息を吐き、体を震わせ、一歩、そしてもう一歩と、夜闇より濃い黒い流れに入り込んでいく。流れは緩慢ながら重く蠢き、ともすれば、馬の脚を引きずり倒し、呑み込もうとする。
「俺達が姿を消して、20数えたら、火を放て」
シートスの簡潔な命令に、待機している野戦部隊の面々が頷く。
「それから20数えて、用意した砂を川一面に撒く」
細かな砂は川面を覆い、じわじわと広がって炎を消してゆくだろう。『黒の流れ(デーヤ)』の密度の高い液面は、砂を容易に沈ませはしないはずだ。
もう一度、野戦部隊達が頷く。
アシャに続いてシートスの馬も『黒の流れ(デーヤ)』を歩き出す。ゆっくりと流れの下を探るように、やがて速度を上げていくが、時々ぐらり、とシートスの体が揺れる。まだ反乱軍の拠点は何の動きも見せていない。
「4、5、6」
アシャは口の中で数える。少しでも速く、少しでも遠く、放たれる炎から距離を稼がなければ、生還できない。水に脚を取られ転倒すれば、それこそ一巻の終わりだ。
「10、11、12、13」
心臓の鼓動と同じ速さで重ねられる数が20に達したのと前後して、背後に熱が広がった。視界の両端を侵す紅の光、周囲がみるみる明るくなり、ようやく岸辺の拠点にざわめきが起こり始めた。
「シートス!」
「はいっ!」
「右!」
「っ!」
アシャが馬を猛らせ、先に立って『黒の流れ(デーヤ)』を下っていきながら、鋭い声で道を示す。20歳にも満たない少年のことばに、シートスは必死に従う。夜闇に滔々と走る黒い流れ、その中にほんの僅か見え隠れする浅瀬を選んで駆け抜けるという途轍もない芸当をこなすには、シートスの感覚は鈍すぎる。アシャの後を追うのに精一杯で、とても周囲の様子に気を配っている暇などないだろう。
「…」
ちら、とアシャは岸辺に視線を動かした。本拠までの流域の三分の二は踏破した。背後に燃え上がる炎の熱がじりじりと近くなる。赤、黄、白、それらの入り交じった紅蓮の舌が、予想以上に速く、アシャとシートスに追いついてくる。
「、アシャ!」
「まだだ!」
微かに怯えを宿したシートスの声に振り返って叫ぶと、相手がぞくりと身を竦めたのがわかった。魅入られたようにこちらを凝視する二つの目が、半ば夢の中を漂うように茫洋としている。
「まだ早い!」