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おや、とシートスの目が動いた。そんなことはない、もう少し頑張れば勝てる。アシャがそういう類の、視察に来る者お決まりの文言を口にすると思っていたらしい。だが、警戒は緩めないまま、厳しい目線で次を促すようにアシャを睨む。
(いい目だ)
堪えようとしても堪え切れない笑みに口許が綻ぶのをアシャは感じる。こういう男に背中を預けて戦うのは、きっと楽しいだろう。
「しかし、負けるわけにはいかないだろう」
「……」
沈黙の返答、しかし睨み返す目が十分に応える。
「今夜殴り込むが、ついて来るか?」
がこん。
そんな音がしたんじゃないかと思うほど、シートスの口が上下に開いた。そのままぽかんとアシャを見つめる。間抜けで世間知らずというだけではなく、大バカ者だったのか、こいつは。そう詰りたいが、あまりの馬鹿馬鹿しさに何を話していいのやらというところか。
「シートス?」
くすくす、とアシャは笑った。
「顎が落ちそうだ」
「っ!」
はっとしたシートスが瞬きし、しばらくためらい、自分の耳が聞いたことが幻聴であったかもしれないと訝るような顔になる。やがて、
「……正気ですか?」
四大公公領地でこんな無謀な質問をすれば、すぐさま『羽根』の誰かが危険分子だと大公に注進に行きかねない。
アシャは澄まして続ける。
「と言ったら?」
「……無理です」
からかわれた。
シートスはそう判断したようだ。
苦々しい口調で続ける。
「あなたは……来られたばかりで、事情がよく呑み込めていないのだろう」
敬語を捨てて、それでもあからさまに無能で無知だとは言わなかった。
「拠点数20余り、敵総数、推定600から700、制圧地域、ガデロ流域内『黒の流れ(デーヤ)』全土、物品補給ルートは5、6本まだ健在、今後の長期戦も可能………」
アシャは事実を列挙する。
「対するこちらは、野戦部隊70、『羽根』20、視察官5、総勢100名そこそこ…」
まさに小競り合いに相対するようなささやかさ。
「数だけでは現状を掴めない」
シートスがぎらつく目で言い返した。
「現に」
「現に、既に野戦部隊5名、『羽根』の10名近くが離脱、死亡している」
アシャはシートスのことばを引き取った。なお冷たい顔になる相手を真正面から見据えて、
「だからこそ、これ以上長引かせたくない」
「『氷の双宮』の中におられて、兵法がお分かりですかな」
おやおや、これはどこかの誰かが使った戦法だったらしい。
アシャはすぐ反応したシートスを見つめ返す。相手の顔は薄赤く、怒りをたたえている。
「関わっていなかったからこそ、見つかる方法もある」
「地図の上でのみ有効な方法、ですか。紙の上では軍は負けませんからな」
(本当にいい男だ)
さすが野戦部隊を率いるだけある。勇猛果敢、しかも冷静沈着、配下を思い、不利な状況でも最善を尽くそうとする。
ならば、応えるのが施政者というものだろう。
「1つだけ、やれそうな方法がある」
「ほう?」
「盲点だ」
「何が見えてないと?」
「『黒の流れ(デーヤ)』だ」
「『黒の流れ(デーヤ)』?」
目の前に流れるあれが、目に入っていないとでも?
冷笑するシートスにことばを継ぐ。
「反乱部隊が『黒の流れ(デーヤ)』流域に拠点を構えたのは理由がある。『黒の流れ(デーヤ)』を背にしていれば、その方向に守りを備えなくてもすむからだ」
「だから我々も攻めあぐねて」
「本当にそうか?」
「は?」
何をわかりきったことを、と言いたげなシートスのことばを、アシャは遮った。わけがわからない顔で見返してくるのに続ける。
「『黒の流れ(デーヤ)』の方向には、本当に守りがいらないのか、と言ってるんだ」
「まさか」
「それが1つ。もう1つは、本拠を叩けば、烏合の衆、つけ込む隙も出てくるだろうということ」
「ちょっと待って下さい」
さすがに野戦部隊の隊長だけあって、アシャが示唆した可能性に気がついたようだ。うろたえたようにアシャを見ながら、
「まさか、『黒の流れ(デーヤ)』を下ろうって言うんじゃ」
「そのまさか、さ」
にっと笑ってアシャは立ち上がった。
「しかしそれは」
「危ないと思うなら来なくていいぞ」
にやにやと笑みを広げる。
「だが、部下には伝えておいてくれ。俺が下り始めて20数えたら、『黒の流れ(デーヤ)』に火を放て、と」
「!!」
シートスは大きく目を見開いた。じっとアシャの目を見つめ、やがて静かに首を振る。
「…確かに、『黒の流れ(デーヤ)』の水は燃えると聞いたことがある。その火が『黒の流れ(デーヤ)』を下っていくなら追手も来ないだろうし、『黒の流れ(デーヤ)』側を無防備にしている拠点も撃ちやすい……だが、『黒の流れ(デーヤ)』を下るだと? それも走る炎に追われながら?」
シートスはぴたりと動きを止めた。しばらくその可能性を吟味するように考え込む。
「……いや…無茶だ…無茶すぎる。……しかし」
ぐっと歯を噛み締め、シートスはアシャを見た。軽蔑の色は消えている。
「生き残る方法は、それしかないようですな。お供します」
アシャは静かな微笑みで応じた。




