1.碧羅宮にて
天遊林の東側に位置する碧羅宮では、その名の通りの碧の瓦が陽光に輝いていた。天遊林の四方の宮は、それぞれの方角に則った色と名を帯びるのだ。黒を基調にして重厚な雰囲気のある北の星黎宮とこちらでは、大分雰囲気も違うようだった。
それは、建物が纏う色だけが理由ではないだろうけど。第一皇子を主とする碧羅宮には、すでに何人もの妃が迎えられている。彼女たちが従える侍女や召使も多く、宮の中を行き来している。そんな女たちの華やいだ声や衣擦れの音が、華やいだ雰囲気を醸しているのだろう。
「陶妃様、ようこそお出でくださいました」
「第一の宮にお招きいただき、まことに光栄に存じます」
「皆様、首を長くしてお待ちですわ。どうぞこちらへ」
侍女を従えて碧羅宮を訪ねた――というか炎俊皇子によって放り込まれた朱華は、出迎えた者の所作の美しさ恭しさ、言葉遣いの丁寧さに少しだけ驚いた。もちろん、新参とはいえ皇子の妃が蔑ろにされることはあってはならないのだけど。でも、もう少しひやりとした棘のようなものが突きつけられるのではないかと思っていたのだ。
(百花園とは訳が違うのね……)
百花園では、女たちが競い合うひりひりとした気配が常に漂っていた。朱華の目が特別だからではなくて、きっと誰でも肌で感じられることだろう。笑顔の裏では辛辣な品定めが行われているし、艶やかな唇が扇の陰で紡ぐのは、誰かを陥れるための謀かもしれない。
小さな火花ひとつが大きな炎を起こしかねないと知っていたから、他家の姫たちに招かれた席でも朱華は緊張と注意を怠らなかった。《力》で彼女に並べる者は少ないとしても、悪意ある目に晒される中で、隙を見せることなどできるはずもなかったから。でも――
(あれはやっぱり、子供の遊びみたいなものだったわね)
「まあ、陶妃様。ようやくお会いできましたわね。あの、雪莉様とお呼びしてもよろしいかしら?」
「もちろんですわ、宋妃様」
「わたくしもどうぞ名でお呼びくださいな。同じ妃同士なのですもの」
大庁に通された朱華は、碧羅宮の女主人に満面の笑みで迎えられた。宋家の凰琴という名の女だ。第一皇子の一の妃でありながら、おっとりとした雰囲気の佳人だ。纏う衣装の色も柔らかく、驕ったところなど欠片も見えない。でも、だからこそ朱華は怖い。内心に溜めているのだろう警戒や敵愾心を完全に隠してしまえるのだとしたら、この女は百花園で分かり易い嫌味を言ってきた女たちより何枚も上手だ。
(百花園、って。要は雑多な花の寄せ集め、という意味だったのかしら……?)
ほんの一瞬思考を彷徨わせることさえ、この場所では油断になってしまうのかもしれないけれど。それでも、絵札当てに興じて競っているつもりだった自身やあの女たちの愚かさ浅はかさを思うと、妙なおかしさを覚えずにはいられなかった。あるいは、神遊ぶと美称される天遊林の、本当の闇の深さを直視したくないのかもしれない。それで、茶化したように考えてしまうのかも。
『義姉上たちに挨拶をしなくてはな。女同士、話が弾むことだろう』
ごく気軽に言ってのけてくれたけれど――炎俊が朱華をこの宮に送り込んだのは、競争相手の妃たちの恐ろしさを教えるためなのかもしれない。
大庁には、凰琴の他にも先客がいた。第二皇子と第三皇子の宮からも妃たちが招かれている。朱華の顔見せということになっているけど、つまりは新参者の器量を見ておこうということだろう。ただ、百花園でされたのとは違って、見られるのは容姿や《力》の程度では済まないだろうから厄介だ。ここにいる女たちは、皇子に摘まれた者ばかりなのだから。
摘まれる、とは百花園の女たちを花に喩えた表現だ。美しさに限らず、才知や家柄や《力》によって皇子の目に留まった女は、摘まれる――つまり、天遊林の四方に位置する宮に迎えられる。そうして晴れて妃の位を得て、また新たな競い合いを始めるのだ。今度は子供の喧嘩のような意地の張り合いとは訳が違う。自身の夫たる皇子を帝位に導くための、妃同士の。目に見えない、より油断できない戦いだ。
一通りの紹介が済むと――朱華はあらかじめ出席者の名と出自くらいは覚えていたし、あちらにとっても同様だろうけど――茶菓を摘まみながらの歓談の席になった。これもまた百花園の時とは違って、お互いの《力》を見せ合う場面はない。そのようなことをしないでも、摘まれた時点で《力》があるのは分かり切っているということだろう。
「星黎の御方もやっとお妃を娶られたのですね」
「ええ、わたくしたちも妹ができたようで嬉しいの」
「宮での暮らしにはもう慣れられて?」
座は、いたって和やかなもの。特に、主賓たる朱華には次々に言葉が掛けられる。それらを紡ぐのはいずれ劣らず美しい声、しかも上品で優しく、心からの親しみに満ちているとしか思えない。少なくとも、朱華の耳が聞き取れる限りにおいては。
「雪莉様? 遠慮なさらないで、どうぞ召し上がって」
「お好きなものはあったかしら。この機会に教えていってくださいね」
例えば、問いに答えるのに忙しくなりがちで菓子を摘まめないでいると、凰琴は目ざとく声を掛けてくれるし、他の妃たちもすかさず唱和してくる。とはいえ、単なる優しさや気配りだけではないはずだ。それぞれの家の思惑を負っている以上は、恐ろしさも強かさも持ち合わせた女たちなのだろうから。それに多分、《力》の方も。
(宋家といえば《水竜》だけど……)
凰琴は、治水に長けた《力》を継ぐ一族の出だったはず。それなら、少なくとも朱華の正体を視透かされる恐れはないだろうか。でも、他の女たちには当然のように《遠見》や《時見》の目を持つ者もいる。朱華と、それに夫である炎俊の正体に疑念を抱かれることがないよう――背景を視て探ってやろうなどと思われないよう、一挙一動にも細心の注意を払わなくてはならない。
「申し訳ございません、宋妃様――凰琴様。わたくし、まだ夢を見ているような心地ですの。わたくしが、妃と呼ばれるようになるなんて。皆様は天女のようにお美しくて――その中に、入って良いものかと……」
凰琴が菓子をひとつ摘まんで見せたのに倣って、朱華も香ばしい生地で餡を包んだ酥餠を口に運んだ。別に毒入りを疑っていた訳ではないけれど、にこにこと微笑んで答えを選んでるうちに、時機を逃してしまっていたのだ。
「雪莉様こそ華やかで美しい方なのに……!」
朱華のやや露骨な追従に、華やかな笑い声が弾けた。とはいえ、誰も真に受けて喜んだりなどしていないだろう。この場に妃としている以上、美しいのも贅を凝らした衣装も当たり前、実家の権勢もいずれ劣らぬ最高の女たちなのだから。他人からの賞賛など聞かなくても自身の価値はしっかりと把握しているだろう。そして自らの高みを知っているからこそ、百花園の時のようにちくちくとした物言いをしてくることはない。
新参者が品定めされるという構図は同じでも――敵手たちの余裕と底知れなさゆえに、朱華の心は休まることはなかった。
「星黎宮にもやっと花が咲いたかのようですわね」
「炎俊様がお気に召したのも得心いたします」
「ええ、雪莉様のような方がお好みなのかしら」
(ほら来た……!)
そして話題は、いよいよ本題に入る。待ち構えていた展開に備えるべく、朱華は茶で軽く口を湿した。ここからは、これまで以上に言葉に気を付けなければならないし、妃たちの反応にも目を光らせなければならない。
妃たちの争いは、つまり夫たる皇子たちの争いでもある。最終的な勝者は帝位を得るただひとりだとしても、その過程で一時的にでも手を組むのは十分あり得ることだ。あるいは、自身の派閥に取り込んでしまうか。これまで妃を娶らず、よって有力な外戚もいなかった第四皇子ならば、敵とさえ見られていないのも大いにありそうなことだった。
だから、叩き潰すよりは懐柔する策を探りたいはず。具体的には、第二、第三の妃を自家から送り込むことによって。――そう、炎俊自身が言っていた。あの、男とも女ともつかない妖しくも美しい微笑みと共に。
「さあ、どうでしょうか。一体わたくしの何に目を留めてくださったのか、皆目見当がつかないものですから」
「あら、ご謙遜を」
「炎俊様の御心を射止めた秘訣を、是非とも教えていただきたいですのに」
惚ける朱華に食い下がる妃たちの真意は、他人の恋愛沙汰や夫婦模様が気になるのが二割程度、残りはやはり夫や家のための情報収集といったところだろうか。他愛ない囀りのようでいて、目の奥には真剣な色が宿っている――ように見える気もした。
「皆様にお聞きしたいのはわたくしの方ですわ。皆様のお目には、我が君はどのように映っているのでしょうか?」
朱華の言葉は冗談と捉えられたのだろう、妃たちの間に微かな笑いのさざ波が起きた。けれど、朱華も八割がた本気だった。何しろ彼女は、彼女の夫になったはずの皇子について、ほとんど何も知らないのだから。




