21.周妃の《力》
「結末……私、次第……?」
周妃の、大きく黒々とした目がゆっくりと瞬いた。彼女の目に何らかの《力》があるのかどうか、これもまた朱華は知らないけれど、印象的な美しい目だと思う。でも、志叡皇子が彼女の容姿を取り立てて褒めたところは想像しづらい。良家の令嬢で《力》にも容姿にも恵まれているとなれば、それこそ皓華宮の佳燕のように、夫君から溺愛されてもおかしくなかっただろうに。なのに、実際に周妃がいるのは辰緋宮だというのだから世の中は儘ならない。
「……長春君様に言いつけるおつもりなのでしょう。好きになされば良いわ……!」
口ではそう言いながら、そっぽを向いた周妃の頬は青褪めて、褥を握りしめる指も震えている。本当に志叡皇子にありのままを伝えても良い訳はないのは明らかだった。ついでに、彼女が夫に並々ならぬ思いを向けていることも明らかで──これもまた、儘ならないことなのだろう。
「ですから、好きにしておりますの。ご夫君の関心欲しさに周妃様が嘘を吐かれたと──報告するのは簡単ですけれど、二の君様はきっとそれでは納得なさいませんもの」
「そんなこと……長春君様は安心なさるはずよ。辰緋宮に、御子を害するような妃はいなかったということですもの。……私だけを追い出せば、良いのですもの……!」
周妃の処遇はまた別として、正直言って朱華も志叡皇子ならそうだろうな、とは思う。妃の虚言を聞かされても、なるほどそうだったか、だけで終わらせそうな気がしてならない。でも、それでは何の解決にもならないはずだ。たとえ周妃が宮を去ったとしても、志叡皇子の与り知らぬところで妃たちは密かに競い合い見下し合っている。
(あれ? 炎俊のためにはそっちの方が良いのかしら?)
競争相手の宮の内情が、足並みが揃っていない方が。……大事なことに気付いてしまった気もするけれど、そこはとりあえず措くことにして。朱華は辛抱強く、寝台の隅に縮こまろうとする少女に語りかけた。
「二の君様からは、周妃様を安心させて差し上げるようにと命じられておりますの。ですから──お叱りを受けるようなことになっては、『安心』とはほど遠い結果になってしまいますでしょう?」
そう、それに──ちょっと本人に会って話を聞き出したくらいでは、志叡皇子は満足しないのではないか、という懸念が拭えない。辰緋宮の内情や炎俊の今後よりも、それは朱華にとっては切実な問題だった。志叡皇子が彼女を見る目は、どうにも不穏なものだったからだ。彼女の正体──陶家の令嬢ではないということ──に気付いているか、疑っているのではないかと思わされてしまうからだ。
皓華宮の翰鷹皇子をして、佳燕への過ぎた寵愛を見直させるような、そんな劇的な何かを見せないといけないのではないか。はっきりと言われた訳ではないけれど、そんな気がしてならないのだ。
「長春君様が……そんなことを……!?」
「あの、周妃様は悲しみのあまりに誰かを責めずにはいられなかったとか、そのように思われているようですから……」
薄暗い寝台に、どこかから光が射したように。周妃の顔がぱっと輝いたので、朱華は慌てて補足した。ぬか喜びをさせてしまって申し訳ないけれど、残念ながら志叡皇子は周妃に格別の気遣いをした訳ではないのだ。
「そう……すべて思い違いだということにすれば、一番手っ取り早くはあるかもしれませんわね。他の方々に、ひと言謝っていただくことにはなるでしょうけれど、きっと皆さま分かってくださいますから。でも、それでは二の君様は今までと同じように周妃様にも、ほかの方々にも接されるでしょう。どの方も、思うこと感じることは大差ない、だから同じ扱いで構わないと思われるでしょう。──その方が、よろしいでしょうか?」
周妃の顔色はくるくると良く変わる。希望に輝いたのも一瞬のこと、すぐに青褪め、ついで頬を赤く染めて悔しげに唇を噛んで。流産の悲しみに耐えきれず、つい誰かを責めてしまった──そう、志叡皇子やほかの妃たちに弁明するところを想像したのだろう。志叡皇子が疑いなく頷く一方で、妃たちはすべての事情を察している。嘘に嘘を重ねて取り繕った周妃は、彼女たちの侮りと嘲りに晒されることになるのだろう。表向きは美しく和やかに微笑み合う陰で。
「もちろん、今日のところはご挨拶だけ、ということでも構いませんわ。二の君様は、女には聞かれたからといってすぐに答えることができないことがあるということを、分かっていただいた方がよろしいかと思いますもの」
寝台の傍に跪くような体勢は、意外と疲れるものだった。周妃に対して無礼がないように、姿勢を正し、かつ彼女を怯えさせないように笑顔を保たなければならないのだからなおのこと。だから、とりあえず顔を見られたことだけでも収穫として今日は帰っても良いか、と。朱華はそう思い始めていた。つまりは面倒になってきたのだけど──周妃は、そうは取らなかったようだった。
「……どうして私に構われるの。長春君様に取り入ろうというの? 四の君様のために……?」
「そうですわねえ、私の長春君様は、私を信じて任せてくださっていますから。だから、私も頑張らなくては、とは思います」
毛を逆立てていた威嚇していた子猫が、少しだけ牙を収めた瞬間を見るようだった。初めて会う他所の宮の妃が、意外にも優しくしてくれている、とでも思ってくれたらしい。少しだけでも態度を和らげてくれたのは良いけれど、ならば朱華も相手をまた警戒させないようにしなければならない。必死に笑みを取り繕いながら、朱華は嘘にならず、同時に周妃を失望させない言葉を捻り出そうと頭を絞る。悩みながら思うのは、この少女は天遊林にいるにしてはやはり甘いし幼いのではないか、ということだった。
(この状況で、本当のことを言う人なんているはずがないのにね……)
朱華や、ひいては炎俊の思惑を疑い警戒するのは、当然のことだ。競争相手の皇子の、さらにその妃を真摯に案じる者は普通はいないのだから。でも、彼女を利用しようとしている者が、馬鹿正直に本心を打ち明けるはずがない。むしろ、取り入ろうとして美辞麗句を並べるものなのだろうに。その点から言っても、周妃の態度は子猫の威嚇でしかないのだ。もしかしたら、他の妃たちはこういうところも侮っていたのだろうか。
「そう……ご夫君に尽くすことができるというのは幸せなことだわ」
でも、朱華にしてみれば、江妃をはじめとした油断のならない方たちよりも、皓華宮の佳燕やこの周妃の方が人間らしくてやりやすい。微笑みながら同輩を出し抜く算段をしている方たちは怖いけれど、夫との儘ならない関係に思い悩むのは──彼女自身とは全く種類が違う悩みだとしても──理解も共感もできるから。だから、慰めたいし手伝えたら良い、とも思うのだ。
(まあ、今日はご挨拶程度、でも良いわよね?)
脳裏に浮かびそうになる炎俊と志叡皇子の冷たく整った顔を振り払いながら、朱華は周妃に微笑みかけた。あの兄妹からすれば徒手で戻った、という評価になるのかもしれないけれど、宮を越えて妃同士で人脈を持つことだって後々大事になるかもしれないではないか。
「私は《遠見》の《力》を買っていただきましたけれど、でも、周妃様も優れた《力》をお持ちなのでしょう? ほかの方から伺いましたわ。きっと、ご夫君のお役に立てる機会もめぐってくることでしょう」
江妃に絵の指南を任せた経緯からして、志叡皇子だって妃たちの《力》の種類や程度は把握しているのだろう。それは、実際にその役を勝ち取れるかどうかはまた籤引きになってしまうのかもしれないけれど。今の周妃には、少しは明るいことを考えてもらった方が良い気がする。朱華としては機嫌を取るつもりで言ったのだけど──
「私にできることなんて、大したことではないわ」
周妃は、なぜか傷ついたような顔をしてまたそっぽを向いてしまった。朱華の言葉の何が気に障ったのか、周妃が握りしめた絹の褥がきゅっと鋭い音を立てた。
「優れた《力》なんて……《遠見》や《時見》の方々に言われたって……!」
「ええと、あの、申し訳ございません。周妃様の《力》のことも存じませんで──」
では、周妃の《力》は視ることに関わるものではないらしい。それなら《水竜》か、またほかの《力》なのか。でも、その種類が何であれ昊耀の国を支える礎ということになっているはず。周妃をどう宥めれば良いか分からなくて、朱華は言葉を途切れさせてしまう。代わりに室内に響くのは、絹が擦れる高い音──周妃は、鬱屈を全て握り潰そうとでもいうかのように、手に力を込めているらしい。でも、激情に駆られて拳を握ったとして、絹音をずっと響かせるというのは腕に力を入れ続けているということであって。それは……かなり疲れるのではないか、と思うのだけど。
(あれ? 力……強くない?)
「どうせ私なんて、穴を掘ったり石を積んだりするくらいしかできないのよ……!」
朱華が疑問に思った瞬間に、周妃は声高く叫んだ。同時に、絹の褥がひと際鋭い音を立てる。絹を裂くような、という喩えの本当のところを、朱華は実際に聞くことになってしまった。
「あの、周妃様、御手が──」
周妃が握りしめたところから、褥は無残に裂けている。小柄な少女が、ほとんど身動きもしていないのに指先の力だけでやってのけたことだ。尋常の力ではあり得ない──となると、おのずと分かる。周妃の力は《闘神》だ。並外れた体力や身体能力を誇る、武人に向いた《力》だ。
「あ──私、また……」
朱華が控えめに指摘すると、周妃は頬を赤らめて拳を解いた。赤くさえなっていない細い指先を見て、朱華は何となく察する。この部屋の調度がことごとく鋳物でできているのは、女主人がうっかり壊してしまわないように、なのだろう。
(これも、誰か言っておいて欲しかったな……)
実家の後ろ盾という点では、もちろん周家は大いに志叡皇子の役に立つのだろう。でも、妃としてこの《力》を役立てられる場面は確かに限られるだろうし、箸より重いものを持ったことがなさそうな姫君たちの間では揶揄の対象になりやすいのは想像に難くない。
辰緋宮の妃たちは、故意かどうかは別としても、朱華に伝えなかったことが多すぎるようだった。




