20.周妃の寝室にて
(……そういえば、どうして周妃様の寝室まで連れていかれるのかしら?)
朱華がその疑問に気付いたのは、侍女の先導に従って宮の奥に繋がる廊下を歩いている時、だった。星黎宮のどの建物も黒を基調とした意匠でまとめられているのと同様に、辰緋は妃が住まう最奥の一角までも華やかな赤で彩られていた。もちろん、目が痛くなるような──あるいは娼館の装飾を思わせるような過度などぎつさではないのはさすがに皇宮といったところだけど。
でも、今の朱華には普段見ることがない他所の宮の造作に目を瞠る余裕はない。貴い女子の寝所に入るからと、星黎宮の従者たちは置いて来ているからだ。敵地──と認識してしまうのは間違っているかもしれないけど──にひとりきりの状況だと思うと、罠に誘い込まれているような気分にもなってしまうのだ。
(いや、虎穴に入らずんば、とは思ったけどさあ!)
招かれざる客人であることは、弁えている。日時を取り決めた上で訪ねたというのに周妃が現れなかったのは歓迎していないことの意思表示だろう。でも、周妃は流産どころかそもそも懐妊さえしていなかったという朱華の推論が当たっているなら、彼女は特段に寝込んでいる訳ではないはずなのに。客間で応接するには及ばないとでも言いたいのかもしれないけれど、寝室に赤の他人を招き入れるのはそれはそれで楽しいことではないと思う。廊下を曲がるにつれて、本来は客に見せないはずの私的な空間に足を踏み入れるにつれて、朱華の混乱は深まっていた。
朱華の前を歩いていた侍女が、足を止めた。固く閉ざされた扉の向こう側が、周妃の寝室なのだろう。よく考えるまでもなく、志叡皇子も何度かはここを訪ねて、懐妊してもおかしくないようなことをしているはずで──今更ながらに、本当に押しかけても良いものかと朱華の胸には迷いが生じてしまう。とはいえ、朱華が心の準備をする暇もなく、侍女はもう扉の向こうに呼びかけている。
「芳琳様、星黎宮の陶妃様がお見えでございます」
「そう。……入って」
室内から聞こえた声は、高くか細いものだった。天遊林で会った妃たちの例に漏れず、品のある美しい声ではある。繊細さや気弱さを窺わせる響きは、朱華が知る方の中では佳燕のそれに近いかもしれない。でも、控えめで穏やかなあの方と違って、神経質そうというか険が潜んでいるようにも聞こえる気がする。
とにかく、ここまで来たら周妃に会わない訳にはいかない。扉を開けた侍女の目配せに従って、朱華は腹を括ると室内に足を踏み入れた。
部屋の広さや作りは、星黎宮の朱華の寝室とさほど変わりない。宮を象徴する色の違いこそあれ、多分、どの宮のどの妃でも生活する空間は似たようなものなのだろう。化粧台の鏡は閉ざされて、朝食を取ったりもするするであろう卓も、今は無人だ。ならば部屋の主がいるのは、奥の寝台なのだろうけど──紗幕が降ろされて、その中を窺い知ることはできなかった。同じ室内にいる今なら、《遠見》の《力》で覗けないことはないけれど、さすがに見ず知らずの方の寝台の中を覗き視る気にはなれなかった。何より、朱華の目を惹いたのは室内の調度の材質だった。
(鋳物……? なんか、重そうね……?)
化粧台も卓も、寝台でさえ。室内にあるものすべて、金属製の鋳物でできているようだった。朱華の部屋にあるものや、これまで天遊林のあちこちで見てきた木製のものと比べて意匠の繊細さや美しさはまったく遜色ない。木材を彫るのと金属を溶かして型に嵌めるのと、同じような見た目のものを仕上げるにしてもどちらがより高価なのか、より手間がかかるのか朱華には分からない。まあ、皇子の妃の部屋を設えるのに金や手間暇を惜しむはずはないから、きっと周妃か周家の趣味なのだろう。ただ、見た目が重厚なのは良いとしても、日常で使うには重くて扱いづらくはないのだろうか、とは思う。
そして、朱華が室内の調度を観察する時間がたっぷりあってなお、部屋の主はまだ姿を見せてくれない。というか、周妃が寝台から出てこないからこそ、部屋を見渡すことしかできないと言った方が良いのか。案内してくれた侍女は、朱華をちらちらと窺いながら泣きそうな顔と声で紗幕の中の女主人に訴えている。
「芳琳様、せっかく来ていただいたのですから。どうかお出ましになってくださいませ」
「分かっているわ! でも……」
「あの、陶妃様はもういらしているのですよ──」
寝台を覆う紗幕を、内からしっかりと掴む小さな手の影を見て取って、朱華は溜息を辛うじて呑み込んだ。うんざりした思いを吐き出してしまったら、周妃は確実に機嫌を損ねるだろうしますますややこしいことになりそうだった。来いと言われてから来たというのに、周妃はまだ心の準備ができていないらしい。志叡皇子や周妃自身のためというよりは、困り切った様子の侍女のために、朱華は仕方なく差し出がましく口を開くことにした。
「あの……周妃様。ご気分が優れないのでしたら、私はこのままでも構いませんけれど……?」
侍女に対してははっきりとものを言っているから、不調という意味で気分が優れないということはないだろうとは分かっている。でも、いい加減にしろという訳にもいかないから仕方ない。お互いの体面を保つための妥協案のつもりで言ったのに──紗幕越しに、なぜか不機嫌な気配が漂ってきた、気がした。絹が擦れるさやかな音と共に紗幕が押し開かれ、向こう側から小柄な人影が姿を現す。
「……星黎宮の方はお優しいのね。お腹の中では、さぞ呆れているのでしょうけど。それとも、素晴らしい《遠見》の《力》で視えるから良いのかしら」
覗き視られるくらいなら自ら顔を出した方がマシ、とでも言いたげな口ぶりだった。一応は朱華の来訪に備えて化粧をしていたのか、紅く塗られた唇が尖らされて、朱華を睨む黒々とした目の周りも彩られている。薄暗い寝台の中、いかにも不機嫌そうな拗ねたような表情を浮かべていてなお、辰緋宮の──帝位を狙う皇子に捧げるに相応しい整った容貌だとはっきりと分かる。露骨な敵意に少々鼻白みながら、周妃の容姿に目を瞠りながら、朱華は懸命に笑顔を取り繕うとした。
「周妃様……? ええと、お初にお目にかかれて、光栄ですわ」
「無理をなさらないで良いのよ。どうせ嗤いに来たのでしょう……!」
一歩、二歩。朱華が寝台へ歩み寄ろうとすると、寝台の上の人はふいとそっぽを向いてしまった。あり得ざるべき非礼ではあるのだろうけれど、今ひとつ怒る気になれないのは──まあいじけるのも無理はないのだろうな、と思うから。美しい容姿の方は、どんな表情をしていても様になってしまうから。それに、周妃の姿は目くじら立てるのも大人げないと思ってしまうくらいの幼さだったから、だ。
朱華だって、まだ二十歳にもなっていない。天遊林の妃の中では、多分若い方ではあるだろう。でも、寝台の上で寝具に包まっていた周妃は、彼女よりもなお若い。十六とか十七とか、その程度だ。別に、このくらいの年頃で嫁ぐ娘だっているし、結婚すれば自然な流れで子を持つこともあるだろう。だから、驚くべきことではないのかもしれないけれど。でも、予想していなかった、というのが正直なところだった。
(こんなに若い方だってこと、誰か言ってくれてれば良かったのに……)
周妃の幼さを、どうしてだれも教えてくれなかったかについて。志叡皇子の言い分は、聞かなくても分かるような気は、する。辰緋宮に迎えた以上は、幾つであっても平等に扱われるべき妃のひとり、なのだろう。だから取り立てて言及すべきことだとは思わなかったのだ。そして、江妃をはじめとする先輩格の妃たちについては──絶対に、朱華とこの方に対する悪意があったと思う。だって、この歳の方だとあらかじめ知っていたら、あらゆる出来事の見え方が多少、変わってくる。
(若い子だったら思い詰めたり、熱くなっちゃったりすることもあるでしょうに)
あの方たちがどうだったかは知らないけど、若くしてこんなところに放り込まれて、他家の美姫たちと競い合う羽目になって、全員が全員賢く振る舞えるものではないだろうに。それは、優しく教え導いてやる義理まではないのかもしれないけど。でも、同じ夫を支える立場でもあるのだから、もう少し意地の悪くない接し方があっただろうと思う。でも、意地悪な方たちよりも、もっと責められるべき方はほかにいるのではないかと、朱華には思えてならなかった。
「いいえ……私は、ほかの方々とは違います。私は──ご夫君に無礼だとは重々承知してはいますけど、二の君様は……ひどいと、思いますもの」
「まあ……!」
慎重に前置きしたうえで言ったつもりだったけど、朱華は周妃に非難がましい目を向けられることになってしまった。初めて会った女に夫君の悪口を言われたのだから、まあ当然の反応ではある。でも──
「……長春君様は素晴らしい方です。辰緋宮にお迎えいただいて、私は幸せです。優れた方もたくさんいらっしゃるのに、目を向けていただけるのですから」
「はい。どなたも公平に、というのは素晴らしいことです。でも……本当に公平、でしょうか」
滑らかに反駁するようでいて、周妃の声にはどこか自分に言い聞かせる調子があるように聞こえた。多分、周妃は日ごろから周囲の者やほかの妃たちにそのように言われているのではないかと思わせるような。そんな悲しい必死さを感じたから、朱華も怯むことなくすぐに言葉を返すことができる。控える侍女に、黙っているように目で命じてから、朱華は寝台のすぐ傍に歩み寄ると膝を突いた。
「例えば……私に絵を教えてくださる方は籤で選ばれたということですけど、教えるのを厭わない方、そうでない方と色々いらっしゃいますでしょう。妃の性格というか、得手不得手までは考えてくださらないのは……その、共に過ごす時間が同じならば良いというものではないのではないかと思うのですけれど」
「……四の君様を独り占めしてる方に言われたくはないわ。私のことなんて何もご存じない癖に!」
周妃は叫ぶと、じりじりと這うようにして寝台の奥に退いた。他人の寝台に上がり込むことはさすがにできないから、朱華が近づくことができるのはここまでだ。言葉だけでどこまで周妃の頑なさを解すことができるだろうか。
(確かに何も知らないけどさ……)
多少なりとも想像はつく、と思う。若い──というか幼い深窓の令嬢が、見目は麗しい志叡皇子に侍ることができたら、どれほど舞い上がることか。一方で、実家の期待がどれほど重くのしかかるか。辰緋宮に入ってみれば、すぐに夫の冷たい──としか思えないであろう──言動に傷ついただろうし、侮りをあからさまにするほかの妃たちと接すれば心が擦り減っていったことだろう。
でも、そんな推量を述べたところで周妃の矜持を傷つけるだけなのは目に見えている。だから朱華はあっさりと頷いてみせた。
「はい。でも、私は二の君様から仰せつかっておりますの。周妃様の思い違いを解くように、と。ですから──二の君様にどのようにご報告すれば良いか、ご相談させていただきませんと」
「相……談……?」
朱華が激高するものとでも思っていたのだろう。周妃はおどおどと視線を彷徨わせて首を傾げた。その仕草だけでも、彼女が天遊林につきものの謀やら駆け引きの類になれていないことが分かる。
(誰も教えてくれなかったのかしら。それは、お気の毒だとは思うけど)
周妃の無知を嘲りもしなければ利用しようともしない朱華は、辰緋宮のほかの妃たちに比べれば幾らか優しい、のかもしれない。でも、しょせんそれも彼女自身の目的があってのことだ。志叡皇子を納得させられるだけの成果を得なければならない、という。その過程で後味が悪くなるような思いをすることはなるべく避けたい、その程度でしかない。
だから朱華はぐっと周妃の方に身を乗り出した。小柄な少女が身体を震わせるのにも構わず、低く囁く。
「今回のことがどのような結末になるのか──周妃様次第、ということですわね。できれば、ですけど……二の君様の御心に届くようなことを、お伝えできれば良いと思っておりますわ」
事態を少しでも丸く収めようというなら、周妃にとって今が最後の機会なのだ。それくらいは、自力で気付いて欲しかった。




