19.虎穴に入る
朱華は茶を啜りながら周妃の使用人たちが慌ただしく走り回る音を聞いていた。周妃に与えられた建物の奥で寝込んでいる──ということになっている──女主人にお伺いを立てているのだろう。その際には、朱華の言葉も伝えているはず。
『周妃様は、そもそも懐妊されていなかったのではない?』
別に大声で言ったことではないけれど、同じ室内にいた者たちにはしっかりと聞こえたはずだった。声にならない悲鳴が建物を揺さぶったのがはっきりと感じられたから。それでも、同じ宮にいるほかの妃たちを憚ってだろう、声を上げたり朱華に詰め寄ったりする者がいないのはさすがだった。そして彼らは、しばしお待ちを、とだけ朱華に告げると、ああして何らかの手配に走り出してしまった。使用人の間ではひそひそと囁きを交わしているけれど、ちらちらとこちらを窺う視線も感じるけれど、そういう訳で、朱華は彼女の指摘が正しいのか否か、まだ答えを教えてもらっていない。
(まあ、当たってた……んでしょうねえ)
待っている間に、朱華は茶を飲み干してしまった。彼女に事態の進展が教えられるまでにはまだ時間が掛かりそうだったから、暇潰しに花を象った砂糖菓子をぽりぽりと噛み砕く。皇子の妃に出される菓子はさすがに上質で味も見た目も素晴らしい。味わうくらいはしておかないとやってられない。
品の良い甘さが口の中に広がるのを味わいながら、朱華は辰緋宮の妃たちからこれまでに入手した情報を改めて頭の中に並べてみた。つまりは、彼女がいかにして周妃の虚言に気付いたのか、その過程を辿ることでもある。
懐妊中の周妃に対して、同輩であるはずの辰緋宮の妃たちの物言いは、恐ろしくなるほど冷淡だった。
『無事にお生まれになってからで良いでしょう』
『とても、残念だったでしょうねえ』
あまりに冷たいから、流産は何者かの陰謀によるものだという周妃の訴えも、もっともなものだと思えてしまいそうなほどだった。妃たちは、揃って取り合っていないようだったけど、犯人ならば自らの罪が最初からなかったことにした方が話が早いのだから。彼女たちの夫である志叡皇子が、周妃は取り乱しているだけだと述べていたのも信じるには足りないように思えた。あの方の最大の論拠は、平等に寵愛を受けている自身の妃たちが争うはずはないというもので、しかもそれが全く正しくはないということを、朱華は知ってしまって──江妃やほかの妃たちに、嫌というほど教えられてしまったからだ。
(でも、証拠もないって仰ってたからね……)
志叡皇子のことだから、周妃の愚痴めいた繰り言から真実を汲み取ろうとしなかっただけかもしれないけれど。周妃が、軽々しくほかの妃たちの実家を敵に回すような言動はしなかっただけかもしれないけれど。冷静に客観的に事実だけを評価するなら、生まれてもいないとはいえ皇族を殺めた大逆者はいなかったという可能性も十分にある、と考えられた。
朱華がそこからさらにもう一歩考えを進めた切っ掛けは、江妃やほかの妃たちの言葉を思い出したからだった。妃として不心得だとか何とか、嘲るように呆れるように論評していたけれど、よく考えれば、あれらの言葉は流産の疑いをかけられた腹いせだとか意趣返しで言っている訳ではない、のだろう。
(閨に侍るだけが務めだと思ってるとか、そこらの女みたいに愛されたいと思ってるとか……)
だって、懐妊中は、もちろん閨での務めは免除されるはずだろう。四角四面な気性の志叡皇子だからなおさら、大事な身体の女を抱くことはしないだろうし、無理を押しても閨に呼ぶほどの格別の寵愛を向ける女はいないと思える。だから、周妃に対する評価は、懐妊前からの彼女の振舞いに対するものだ。今回の件がなくとも、周妃は同輩たちから軽侮の目を向けられていたのだ。その理由は──
(周妃様は、ご夫君に愛されたかった。平等な扱いではなくて、特別なひとりになりたかった……だから?)
皓華宮の佳燕が聞いたら、大それた願いだと思うかもしれないし、辰緋宮の妃たちは愚かな願いだと断じたのだろう。天遊林で生き抜こうとするなら、自らを幸せから遠ざける類の願いであるのも、多分間違いない。ならば、周妃は佳燕とは違った意味で、天遊林には──朱華に言えたことなのか、良いのか悪いのかは別にして──似つかわしくない方なのだと、とりあえずそう認識し直すところが朱華の思考の起点となった。
夫に愛されたいと望む普通の女性が辰緋宮に入ったのだとしたら──平等な扱いを、喜ぶことはないだろう。単に皇子の妃であること、寵愛の有無によって懐妊の機会が大きく変わるわけではないことで、ほかの妃たちならば満足していたのかもしれないけれど。志叡皇子の人柄を、かえって付け入りやすいとさえ思ったのかもしれないけれど。
捧げる愛と同等の想いが返ってこない時に何をするかは、人によるだろう。他の妃を倣って割り切るとか、諦めるとか。愛が恨みに変わることだってあるかもしれない。ほかには──たとえば、どうにか夫の関心を惹こうと努力することだって。
(って言っても、ほかの方たちもお綺麗だし教養もあるし、実家だってこぞって珍しいものを送ってくるんでしょうし……)
何より、志叡皇子はどんな美酒や美食や珍品で誘われたとしても、妃を訪ねる順番を変えそうにはない。何々が手に入ったから、と言われても、ならばまた次の時の楽しみに、とかさらりと答えそうな気がする。炎俊と話して分かった通り、辰緋宮では並みの夫婦のような心の交流を望むのは、土台無理というものなのだろう。
心無い──と、思えるに違いない──夫の態度に、周妃は多分悲しみ傷つき焦っただろう。好きな男の心が得られない時に女がどう振る舞うかが、高貴な姫君でも卑しい娼婦でも変わらないとしたら。答えはおのずと明らかなように思えてしまったのだ。
(嘘を吐いてでも気を惹くことは……まあ、あるわよねえ)
娼館においては、孕んでしまった、などと言ったらその客は二度と姿を見せないものなのだろうけど。まあ、普通の夫婦だったら夫は喜んで妻を労わって、仕事から早く帰ったり夜遊びを控えたりもするだろう。相手が志叡皇子でさえなかったら、ほかの宮でのことだったら、天遊林でさえも通用する策だったかもしれない。愛情の有無を度外視するとしても、妃の実家との絆を深め、帝位争いにおいて手駒になるであろう《力》ある御子が増えることは、どこの宮でも歓迎されるだろう。そして夫が通う頻度が上がれば、遠からず嘘は真実になるだろうと、周妃は期待したのかも。ただ──それなら彼女は自身の夫をあまりに知らなかったか、見誤っていたということになるのだろう。
(二の君様はそう簡単に変わったりしない。公平な扱いのまま、浮かれて閨の回数が増えたりもしない。……御子は、決して産まれない……)
そう考えると、江妃たちの皮肉っぽい物言いはまた違った風に聞こえてくる。彼女たちが周妃の欺瞞を看破していたとしたら、愚かだと嗤いもするだろう。偽りで懐妊したことにしたからには、その嘘を露見させないためには流産したことにするしかない。江妃たちは、周妃が憔悴する様を愉しんで眺めていたのではないだろうか。そして、周妃がそれを察していたとしたら、同輩たちに意趣返しをしたくもなるだろう。それが賢い振る舞いかどうかはまた別として、そういう気持ちになるかもしれないということは、十分推測が立てられるということだ。
(だからって当たってても困るんだけど!)
とうとう菓子も食べ終わってしまって、朱華は手持無沙汰に室内を見渡した。星黎宮を眺めて品定めしていったこの宮の妃たちと違って、今の朱華には精緻な意匠に目を細める余裕も、相手の出方を楽しみに待つ余裕もない。的外れなことを口にして眉を顰められるよりはまだ良かったかもしれないけれど、では次はどうするか、まではまだ考えていないのだ。
多分、先日会った妃たちは、朱華に告発の役目を押し付けたかったのだろうと思う。自身の妃に欺かれていたという情報を、志叡皇子は多分喜ばないだろうから。周妃自身に恨まれるのはもちろん、その実家からも反発を招きかねないし。競争相手が虚言を咎められるところは見たいけれど、誰かしらの不興を買う可能性からは逃れておきたい、といったところではないだろうか。
(ええ、良い鴨に見えたでしょうとも!)
功名心か、物見高さか。傍からはどう見えたかは分からないけれど、朱華は面倒な役どころを押し付けてもそう心が痛まない、むしろ面白くなりそうに見えたことだろう。迂闊に口を滑らせ過ぎたようにも思えるあの意地悪で居心地悪いひと時は、多分そういうことだ。
下手に切り出せば、周妃は朱華に対して反感を抱くのは間違いない。志叡皇子に真っ直ぐ告げ口しても、あの方は多分満足しない。志叡皇子が望んでいるのは辰緋宮の平穏であって、実態がそれとはほど遠いことを知らされてもまったく嬉しくはないだろうから。
雪莉と再会するためと思わなければ、とうに投げ出していただろう。いや、大事な目的があってなお、帰る口実を探したくて仕方ない。重要な事実は確かめられたことだし、いったん出直しても良いのではないか。そう、思い始めた頃合いだった。
「陶妃様──」
でも、周妃の使用人が帰ってきてしまった。最初に相対したのと同じ侍女だ。顔色は青褪めて、厳しく躾けられているのだろうに落ち着きなく視線を彷徨わせている。つまりは、礼儀作法を守り、品の良い所作を保つことができないくらいに動揺しているということだ。無理もないから気の毒なことだとは思う。
「お待たせして申し訳ございません。あの、主がお会いしたいと──その、無作法とは存じますが、寝室までご足労いただきますように……」
「ありがとう。伺うわ」
とにかく、これで引き返すことはできなくなった。虎穴に入らずんば虎子を得ず──踏み入ろうとしているのは美しい姫の閨房だというのに、そんな思いになってしまうのは誠に不思議なことだった。




