7.交換条件
「あんたは誰……? 何者なのよ……!?」
朱華はもがき、皇子を名乗る女から逃れようとした。が、叶わない。同じ性のはずなのに、相手の力は彼女よりはるかに強く、全力で暴れてもびくりともする気配はなかった。この女は、遠見だけでなく、やはり闘神の《力》も備えているのかもしれない。常人を越えた膂力を発揮することができるという《力》を。そんな存在がいるとしたら、様々な《力》を持つ諸家の源流にして、それらの家々の娘を代々妃に娶ってきた皇族くらいなものだろう。
でも、少なくとも朱華と同じ寝台の上にいる者は、名乗った通りの身分ではないはずだ。腕の中に抱え込まれた朱華の頬には、確かな膨らみと柔らかさが感じられている。炎俊皇子では、ない。ないはずなのに――女はくすくすと笑うと朱華の耳元に囁いた。
「天にして父なる皇帝の息子。炎俊以外の何ものでもない」
「嘘よ。女を皇子とは呼ばないわ。そして公主は皇帝になれない」
「そなたの認識は正しい。だが……では、女児を産んだ妃が何を考えるかは想像がつきそうなものではないか?」
閨の中で肌を寄せ合い、顔を近づけて語り合う。形だけ切り取れば、睦み合う男女のようにも見えるのかもしれない。ただし、幾重もの呪に守られた宮を覗き視ることができる者はいないだろうし、朱華の心臓はときめきや恥じらいではなく恐怖と緊張のために高鳴っている。
炎俊皇子を名乗る女の言葉は明瞭で誤解の余地はない。端正な顔が涼やかな声を紡ぐのは、目にも耳にも心地良いほど。けれど朱華が状況に酔うことはなかったし、あまりに大それた暴露をそのまま受け入れることなどできなかった。
「無理でしょ。一体どうやったのよ。皇帝も遠見だか時見だかの《力》を持ってるんでしょ? 自分の子が男か女かも気付かないなんて――」
「では、そなたは周囲の人間の性別を疑ったことはあるか? 服の下を視ようとしたことは?」
「そんなことしないわよ!」
人の裸をこっそりと視るような趣味は朱華にはない。そもそも、試そうとしたこともない。朱華は息をするように、苦もなく彼方の場所を視ることができる。けれど、力があるからこそ、日常では目の前のものだけを普通に見るようにしている。通常の視界と遠見の視界が重なって見えるのはひどく煩わしいものだから。仮に好色な男だとしても、二重写しになった世界で垣間見る裸体で情欲を満足させるのは難しいのではないだろうか。
(そっか……皆、そうなの? まして皇族を視るなんて畏れ多いから……?)
朱華は寝台の隅に脱ぎ捨てられた皇子の上衣をちらりと視た。遠見の《力》を発揮できないこの場では分からないけれど、皇族が纏う衣装にも何かしらの細工はあって当然、なのかもしれなかった。
改めて、皇子を名乗る女の姿をまじまじと見る。細身だとは思ったけれど、意外なほど端正な顔だとは思ったけど、朱華は最初、こいつの性別を疑うことはしなかった。男物の髷や衣装、男としての言葉遣いや立ち居振る舞いに、完全に騙されてしまったのだ。
「でも……侍医や侍女だっているでしょう。何年も騙せる訳ない……」
「私を取り上げた侍医がまだ生きているとでも? それから、幼い頃私を世話していた者たちは舌を切り落とされていたな」
柔らかな褥と皇子の肌の温もりとは裏腹に、朱華の肌は酷寒の中にいるかのように粟立った。例によって微笑んだまま、何でもないことのように残虐を語る女が恐ろしかった。それに、自分がどんな場所に足を踏み入れていたのかを、改めて突きつけられたようで。
天遊林に入ったとして、皇子に見初められたとして、それで終わりではないのは承知していた。妃の位も皇子の寵愛も、全ては新たな御子を得るためだ。自家の血を引く皇子を帝位に就けて初めて、その女は勝ったと言える。無事に懐妊しても、男児だとは限らない。
それらの賭けに全て勝たなければならない。もしも破れたら、大罪を犯し人の倫に外れてでも覆い隠さなければならない。それも、何十年にも渡って、対立する敵が目を光らせる中で。その気の遠くなるような道のりを頭に描いた時、朱華は思わず吐き捨てていた。
「正気じゃないわ。そんな恐ろしいこと……!」
「母もそなたには言われたくなかっただろうと思う」
そう言われると、押し黙るほかないのだけど。
皇室を欺く大罪に手を染めているのは彼女も同じ。露見してはならないと一心は念じてはいたけれど、この女の言い方だと、天遊林に入ったその日にも雪莉ではないと見抜かれていたのだろう。罪の重さが同等だとしたら、あっさりバレてしまった分、彼女の方が愚かで浅はかだったとも言えてしまう。
とはいえ、自ら嘘と罪を重ねた皇子の母妃と朱華では、決定的に違う点がある。朱華は、陶家に買われただけだ。選ぶ余地、断る道などなかった。自分ひとりならまだ逃げることも不可能ではなかったかもしれないけれど、雪莉をあの家に残して姿をくらますことなど考えることもできなかった。
「私は……好きでやってる訳じゃないわ」
「だろうな」
炎俊皇子の微笑みが、朱華の眼前に迫る。男とも女ともつかない顔と声――でも、いずれも美しくて、理性を揺るがし心を惑わせる。肌に感じる柔らかさは女のものなのに、男の言葉遣いで恐ろしい謀を囁かれるのも朱華の混乱を深めた。彼女にはほとんど経験がないことだけど、酒に酔うのはこんな心地なのだろうか。
舌ではなく目と耳と肌で――全身で、朱華は毒のような美酒のような誘惑を受け止めた。朱華の呟きに心得たように頷いた皇子は、唇を朱華の耳元に寄せると低く優しく語りかけた。彼女の事情を、全て知っているとでもいうかのように。
「そなたは何を望んでここに来た? ただ流されているばかりではなかっただろう? 富か名誉か――陶家への報復でも良い。私なら――私が帝位を得れば、叶えてやることもできるだろう」
「私の、望み……」
でも、この女は朱華の内面までは見通せていない。陶家への報復、などと口にするのがその証拠だ。そんなこと、頭の片隅にも過ぎったことがないというのに。ただ、それを措いても無視できない誘いではあった。朱華が望んでいたのは自由と力。昊耀の国で並ぶ者がない皇帝の妃になることができたなら、確かに何もかも思い通りだろう。
頷きかけて――でも、心地良いはずの人肌が朱華の蕩けた理性を醒まさせる。彼女を抱く腕は柔らかく、その腕の主は紛れもなく女だと伝えてくるから。
「女は皇帝になれない。無理よ……」
「そうかな? 現に私は女の身でなかなか良いところにつけている。異母兄たちとまともに争える程度には。このまま誰にも気づかれなければ……そなたが、手伝ってくれたなら、どうだ?」
どうだ、と聞かれて朱華はやっと気付く。皇子は取引を持ち掛けてきているのだ。雪莉の偽者であることを知りながら閨に招き入れ、更には身体を触れ合わせた理由も、薄々と分かってくる。要は、決して露見してはならない秘密を握り合い、縛り合う関係だ。相手の急所を知り、自身のそれも相手に委ねるからこそ、裏切らないし裏切れない。これを良い関係と呼んだこの女は、大した性根をしていると思う。
こんな取引に乗りたいとは、決して思わない。でも、もはや退くことはできない。いや、朱華にはそもそも選ぶことはできなかった。陶家が皇子からの招きを断るはずはなく、この星黎宮に入った以上、こうなることは既に決まった道筋だった。
嵌められたことを思い知って、朱華は苦々しく呻いた。
「私を罪に問う気はないのね? 黙ってる代わりに、ってこと……?」
「そうだ。そなたの首を刎ねるなど惜しいことをするものか」
彼女の渋面と裏腹に、炎俊皇子は大層嬉しそうに頷いたのだけど。朱華の勘が良いのを褒めるかのように。話が早いのを喜ぶかのように。
「舌を切り落とす必要がない女を探していたのだ。良い《目》と、更には人に言えない事情がある……そなたに会えて、良かった」
それは、睦言にはほど遠い、いっそ唾棄すべき宣告だった。皇子が言ったのは、利用しがいのある駒が都合よく現れてくれて良かった、ということでしかないから。陶家の者たちよりもずっと明け透けで直截で――でも、もちろん朱華にとっては同じくらい質が悪い。
(何なのよ、こいつ……!)
心中で怒りに燃えたところで、逆らうことができないのも今までと同じ。こうして朱華は炎俊皇子の妃になった。予想していたのとは全く別の意味で、最悪の初夜だった。




