16.妃の務め
辰緋宮の妃たちの本音を炙り出そうと、朱華は安堵の溜息を吐いた、振りをした。
「私……実のところ、焦ってしまいましたのよ。《遠見》ならば絵も描けなければいけないだなんて、長春君様に言われてしまって。我が家の躾けが世の常識とは外れていたのか、それとも私が特別に不出来だったのか、と──」
言いながら、朱華はちゃんと江妃に言われたことを思い出している。
『私こそ、《遠見》としてはお恥ずかしい程度の《力》しかございませんの』
あの時の江妃は、謙遜する言葉とは裏腹に美しく余裕たっぷりに微笑んでいた。絵の技術を誇っているようでさえあったとも思う。あの方は、むしろ絵を習おうという朱華の態度を感心だと褒めていたのだ。それに、こうも言っていた。
『閨に侍るのだけが務めと、心得違いをしている者もおりますのに』
もちろん、江妃だって心からの真実を述べている訳ではないだろうし、真実のつもりだったとしても、彼女自身をも騙しているのかも。でも、とにかく。朱華はふたつの見方があることを知ることができたという訳だ。今、目の前にいる妃たちからすれば江妃こそ心得違いをしていると思うのだろう。そして、江妃がさりげなく優雅に貶めた相手は、目の前にいる方々なのか──それとも、周妃がそうだったりするのだろうか。
「まあ陶妃様、そのようなご心配は無用ですわ」
「ええ、ご実家は絵に頼らずとも十分な《力》があると考えられたのでしょうから」
「そのようなことより、私たちにはもっと大事な務めがありますでしょう?」
心を読まれたように意味ありげに微笑まれて、朱華は心臓をどきりと跳ねさせた。動揺は顔に出さないように努めて、無邪気に見えるであろう笑みを返す。
「ええ、それはもう。早く元気で、《力》に恵まれた御子を授からなければならないとは思っておりますけれど……」
天遊林では、星黎宮の唯一の妃は皇子の寵愛を一身に受けている、などと噂になっているらしい。その皇子とは実は女で、したがって朱華はいまだ清い身で、本当に懐妊を望むなら不義密通の大罪を──それ以前に皇室を欺いているという点から、既にして大罪人ではあるのだけど──犯さなければならないのだけど。でも、それは朱華と炎俊と、星黎宮に関わるごく一部の人間しか知らないことだ。
「ええ、陶妃様、それもとても大事なことですわね」
「私はすでに姫を授かりましたが、やはり男の御子でないと」
「星黎宮には他の方がいらっしゃらないから……おめでたいことがあった時は、是非ともお手伝いさせてくださいね」
「まあ、ありがとうございます」
にこやかに頷く妃たちに、朱華もにこやかに応じてみせた。でも、含みのある物言いからして、妃の最優先の務めとは、どうやら子を儲けることでさえないらしい。
「周妃様のこともございますから……本当に、お気の毒に。何があるか分からないものなのですね……。だから、あの、仮のことではあるのですけど、恐ろしくなってしまうこともあるのですわ」
ここでやっと、話は本題に戻るのだろう。辰緋宮の主、志叡皇子の依頼は、流産の悲劇に見舞われた周妃の疑いを解くことだった。周妃は、同輩の妃の誰かが何かしらを企んだ結果だと考えているらしいから。志叡皇子は、周妃を責めるでもなくほかの妃を疑うでもなく、心乱れた母親の、根拠のない妄想だと考えていたようだけど──
(犯人が見つかっちゃったら、どうするのかしらね……)
江妃の意味ありげな言動といい、咲き誇る薔薇のように美しいけれど棘がある目の前の妃たちといい。志叡皇子が思っているらしいほど、辰緋宮の内情は平和ではないのではないかと朱華には思えてならない。
生まれていないとはいえ、皇族を害するのは大罪だろう。ならば志叡皇子も犯人を処罰せざるを得ないはずで、下手をすると犯人の実家にも累が及ぶかもしれない。そうすると、彼らは朱華を恨むだろうし、炎俊までもいらぬ敵意を買うことにもなりかねない。それだけの大罪を犯す以上は、朱華が多少探った程度では露見しないようにしておいて欲しいものだけど、でも、一方で志叡皇子に対して何もわかりませんでした、と報告するのもよろしくない気がする。
(──どう収めろっていうのよ!?)
声には出せない悲鳴を上げて、内心で頭を抱える朱華を他所に、辰緋宮の妃たちは美しくも棘も毒気もたっぷりの笑みを浮かべて優雅に茶器を傾けている。色とりどりの薄絹が奏でる衣擦れの音に、磁器が触れ合う高く澄んだ音に、音楽のように聞き惚れることができたらどれほど良かっただろう。
「ああ……お気の毒な芳琳様。とても、残念だったでしょうねえ」
「でも、四の君様のお人柄については存じませんけれど、私たちの長春君様についてはご心配は無用でしょうね」
「ええ。悲しいことがあったからといって、周妃様を責めたりはなさいませんもの。いずれまた、天が嘉されることもあるでしょう」
でも、依然として朱華には油断が許されないし、妃たちの物言いも含みがたっぷりで邪推せずにはいられない。
(それは……二の君様は本当に気にされていないようだったけど!)
志叡皇子の眼差しはどこまでも真っ直ぐだった。医師だか周妃本人だかの主張を疑うことなく、不幸な出来事として片付けるつもりのようだった。でも、あの方の眼差しは公正さや優しさよりも冷淡さを感じさせた。残念だったけどまた次、だなんて態度を取られて、再びの懐妊を心待ちにできるものだろうか。目の前の妃たちの関与があったか否かは措くとしても、彼女たちにもいつか降りかかるかもしれない仕打ちだというのに。
「……二の君様は、私に周妃様からもお話を伺えとのご意向のようです。でも、あのようなことがあったばかりですし、お会いしたことのない方ですし……」
妃たちの冷淡さや冷酷さを詰ることは、朱華には許されていない。目上の方たちに対してそんな無作法を犯すのは、恐ろしすぎる。でも、彼女が紡いだ声は、少なからず尖ってしまったかもしれない。悲しいことがあったばかりの方を、嘲るような物言いには賛同しがたいと、内心の想いが滲んでしまっていたかもしれない。
「周妃様はどのようなお人柄なのでしょうか。江妃様のように、絵を嗜まれるような方なのでしょうか」
朱華の問いかけは生意気とも取られかねない、単刀直入なものだったけれど、辰緋宮の妃たちはやはり咎めることをしなかった。多分、朱華が混乱するのは彼女たちにとっても望むところなのだろう。不出来な新参者に教え諭してやるのは、気分の良いことだろうし。
「いいえ、まったくの逆ですわよ」
「《力》の方は素晴らしい方ということよ」
「だから周家も絵なんか教えなかったのでしょうね」
(《力》だけはある方、ということかしら……?)
妃たちの言外の含みに耳を澄ませながら、朱華は部屋の隅に控える紫薇をちらりと見やった。この侍女も、皓華宮の佳燕も、《時見》の《力》こそ優れているけれど、絶え間なく視界を襲う過去や未来の幻を制御することができず、呪で守られた宮の中でなくてはまともに生活できないのだとか。
「それは──あの、お気の毒な方、なのでしょうか……?」
「ああ──いいえ、そこまで酷いことではありませんのよ」
「そんな方でしたら、さすがに長春君様も宮にお迎えにはなりませんわ」
室内には軽やかな笑い声が響くけれど、朱華がそれに唱和するには少なからず気力が必要だった。紫薇は置物のように穏やかな笑みを浮かべて直立したままだけど、妃たちの物言いは彼女や佳燕を嘲り侮るものなのだから。佳燕は、多分自らの《力》の程度を他所の宮に明かしたりはしなかっただろうけど──これではさぞ社交が気重だっただろうと、あの儚げな佳人を思い出すと改めて朱華の胸は痛み──同時に、苛立ちに煮える。
(男も女も、本当に面倒臭いわね……!)
男の場合は、《力》があっても拾挙に受かるだけの知識教養や絵の技術がなければ出世はままならないらしい。そして女の方も、容姿や家柄で評価されるのはもちろんのこと、《力》が強くても弱くても、技能があってもなくても難癖の対象になってしまうのだ。
「──妃として大事なこと、でしたわね、陶妃様。すっかり話が逸れてしまいましたけれど」
朱華が物思いに耽るうちに、辰緋宮の妃たちは会話の主導権を手中に収めていた。対面に座る朱華を置いて、同じ宮の同輩たちの間でやり取りが進んでいく。
「大姐でしたら何とお答えになりますか?」
「そうねえ、御子を差し上げるのも、長春君様をお慰めするのもとても大切なことだけれど──」
「やはり、我が君様を帝位に登らせて差し上げること、そのお手伝いではないかしら」
妃たちの笑みに、意地悪さだけではない冷徹さが見えた気がして朱華は背筋を正した。そう、それは確かに一番大切なことかもしれない。そして、この方たちがこう言うとしたら、江妃が言っていた「閨に侍るのだけが務めと、心得違いをしている者」は周妃の方だ。そう心に留めながら、朱華は困った笑みを浮かべてみせた。
「まあ……では、私が心得を伺う訳には参りませんわね……」
「いいえ、要はご夫君を支えるということ、実家との橋渡しを上手く行うということですもの」
「気になることがあったら、何でもご相談くださいな」
志叡皇子と炎俊は、一応は競争相手だから、と思って言ったのだけど。眼中にもないということなのか、辰緋宮の妃たちはごくにこやかに請け負ってくれた。
「例えば──恐れ多いことですけれど、長春君様だって誤られることはございます。その際は実家から諫めてもらうこともありますし、女から取り成す方が丸く収まることもありますし──」
「まあ、本当に恐れ多いですわね……」
(確かにそれは大事なことよね)
何度となく炎俊を怒鳴りつけては叱りつけている自身は棚に上げて、朱華は不敬な発想に震える振りをした。殊勝な態度が気に入ったのか、妃としての先輩たちは満足げに頷いた。
「ええ、でも、それこそが心ある妃というものですから」
そして、満足したことによって気が緩んだのか、それとも朱華に何かしらを伝えたかったのか。彼女たちはかなりあからさまなことを、わざわざ漏らしてくれた。意味ありげに朱華をちらちらと見た視線からして、後者の意図が強いのだろうか。
「慶玲様──江妃様は、絵が描けるから知識があるからと、何でも買って出ようと差し出がましい風がおありなようです」
「一方の芳琳様は、甘えがおありではないかしら。ただ人の妻のように、夫に愛されたいと願っていらっしゃるようです」
「きっとそうね。だからあんなことをなさったのでしょう」
(……つまり、周妃様は二の君様の気を惹きたくて陰謀だなんて言った、ってこと……?)
もちろん、それが事実とは限らない。ただ、彼女たちはそう思う──あるいはそう思いたい、朱華にそう思わせたいということだ。
一方の言い分がとりあえず分かったということで、今日の収穫としては十分、ということにしておこう。朱華はそう考えて別れの切り出し方に意識を向けた。




