14.手ごわい客たち
よく食べてよく寝るのが朱華の主義であって、それは天遊林に身分を偽って入ってからも、星黎宮で炎俊の秘密を知らされて巻き込まれてからも変わらないことだった。その場その場で不安や恐怖はあったけれど、なんとしても乗り切ってやる、生き延びてやるという負けん気のようなものを振り絞って、彼女は今日まで生きてきた。
(でも、こうまで次から次へと色々起きなくても良いんじゃない?)
「はあ……」
朝食に供された粥を、朱華は溜息で冷ました。鶏の出汁で煮込んだ米は、口にすれば美味で滋養があるのも分かっている。食べなければ気力も体力も続かないのも分かっているけれど、さすがに今日これから控えていることを思うと憂鬱が喉を塞いでしまっているのだ。
「食が進まないのか」
「ええ……あんたはいつも通りね」
食事の間は、黙々と手と口を動かすのが炎俊の常だ。その彼女が口を食べること以外に使うとは、それだけ朱華が食べないのは珍しいことだと思っているのだろう。
「準備はすでに整えたし、不備があったとしても今さらどうしようもない。思い悩んでも無駄というものだ」
「それはそうなんだけどね……」
辰緋宮の志叡皇子の依頼という形の無理難題を呑むにあたって、こちら側からも条件を出していたのだ。朱華がまた辰緋宮に足を運ぶのではなく、かの紅い宮の妃たちを星黎宮に招く形にしたい、と。それなら、少なくとも志叡皇子の耳目からは離れたところで話を聞くことができるし、せめて慣れた場所で迎え討つ方がまだしも気が楽だと思ったからだ。
けれどもちろん、それはそれで気苦労が絶えないことではあった。あの紫薇の穏やかな笑みが一瞬だけ強張ったことからも、それは明らかなのだろう。
『まあ……辰緋宮のお妃様方をお招きする……』
『お茶とかお菓子とか器とか、気を遣うでしょうけど……』
星黎宮は、既に第三皇子の翰鷹を迎えたことは、ある。身分でいうならあの方の方が上だし、強引な来訪の理由が分からなかったのも不安だった。でも、今回はまた別の怖さがある。
朱華よりも目上で、高貴な身分の女性たち。それぞれに権門の後ろ盾があって、美貌も教養も気位の高さも飛びぬけているはず。彼女たちを招くということは、朱華がどのように星黎宮を取り仕切っているかを試されるということでもあるのだろう。しかも辰緋宮の妃たちは、同輩である周妃に御子の流産に関する疑いをかけられていて、朱華がそれを質す役目だと認識しているはずだ。彼女たちの間でもお互いを疑っているかもしれないし、罪が露見しないかと戦々恐々としている者もいるかもしれない。たとえ本当に周妃の思い違いや乱心だとしても、他所の宮の、それも新参者に嘴を挟まれれば不快に思っても当然だ。
どんな目で品定めされるのか、あるいは非礼を詰られたり泣き落としをされたりはしないだろうか。想像するだけで怖いし面倒だし胃が痛い。
『はい。長春君様と陶妃様の──星黎宮の名を汚さぬように、全力で臨みますわ』
悲壮なほどの硬い声と表情で、紫薇は請け負ってくれた。そしてその言葉通り、今日のこの日を迎えるまでに考えられるだけの準備はしてきた。だから炎俊の言う通り、今になった思い悩んだところで意味がないのは確かなのだけど。
「粥が喉を通らぬのなら、菓子でも食べれば良い」
「は?」
回想と物思いに耽りながら、それでも粥をひと匙かふた匙は呑み込んだ頃だっただろうか。もう食後の茶に進んでいた炎俊が、こともなげに言った。突飛な言葉の意味を捕らえかねて反応が遅れた朱華に、炎俊は茶器を置くと首を傾げた。
「甘いものは腹持ちが良いし、頭も冴えるだろう。揚げ菓子ならなおのことだ」
(お粥も食べられないのに揚げ菓子を食べろって?)
炎俊の言葉は、今度こそ朱華の頭にちゃんと届いた。その上で彼女は最初自分の耳を疑い、次いで炎俊の正気を疑った。正気というのが不敬なら、炎俊の舌というか味覚というか。食が進まない相手に、それも朝から揚げ菓子を勧めるなんて、彼女の感覚からするとまったくもってあり得ない。あまりにもあり得ないから、大人しく粥を平らげた方がマシだと、匙を握る手に一瞬で力が篭ったほどだった。だって、炎俊の目は、紫薇に揚げ菓子を頼もうとしてか部屋の隅を彷徨っていたから。このままでは、良いとも悪いとも言う前に山盛りの揚げ菓子が運ばれかねない。
「ううん……食べるわよ。ちゃんと、朝ご飯を」
「ならば早くするが良い。女の身支度は時間が掛かるのだろうに」
相変わらず自分は女ではないような物言いをして、炎俊は茶器に残った茶を啜った。朱華の食欲が湧くようにわざとおかしなことを言ってくれた──はずはないだろう。この女のことだから、本当に良い考えだと思って言ったに違いない。それか、単に自分も揚げ菓子が食べたかっただけ。
(まあ、それでも助かったけどね!)
驚きと呆れは、恐れと不安を拭い去ってくれたのだから。ちょうど、粥もほど良く冷めたところだ。心行くまで衣装と着付けに時間を費やすべく、朱華は急いで朝餉を平らげにかかった。
戦いに臨むつもりで客を迎えた朱華は、けれど以外にも辰緋宮の妃たちの同情の目を浴びることになった。もちろん強かな方たちのことだから本心かどうかは分からないけれど、表面的にはそう、ということだ。
「陶妃様には本当にお気の毒なことでしたわね」
「ええ。長春君様も慶玲様も、無茶なことを仰るものですわね?」
今日、星黎宮を訪れたのは三人、以前の碧羅宮での会と併せると、これで朱華は周妃以外の辰緋宮の妃の全員と面識を得たらしい。前回会った方たちの、名前はともかく顔は朧で、全員の顔と名前と出自と《力》を覚え切るのは中々の課題になりそうだった。
(そっか、絵を描くのってこういう時にも役立つのかしら……?)
多分、《時見》や《遠見》の力は、他の《力》に比べれば本来は限られたものだ。何を視たところで、自分自身には何もできず、その場所やその瞬間に辿り着いた時には手遅れになっているのかもしれないのだから。けれど、こと宮廷内の謀とか諜報においては、この《力》は非常に有用だ。別に後ろ暗いことでなくても、見たものそのままを描きとめる技能はどんな場面でも役立つだろう。
(だから炎俊は私に習わせようとしたのね……)
星黎宮には妃の数が望めない分、確保した朱華にできるだけの能力を詰め込もうとしているのかもしれない。あの炎俊のことだから、それこそそれくらいの無茶ぶりはするだろう。役に立つ存在になれば切り捨てられる可能性は減るだろうから、朱華としても励んだ方が良いのかどうか。
束の間、朱華が気を逸らしてしまったことには気付かれていないだろう。美しく高貴で厄介な客人たちは、あくまでも優しく穏やかに親しげに微笑んでいる。流れてしまった周妃の御子のために喪に服そうという考えはないのか、他所の宮を訪ねる時は話が別だということなのか、それぞれに着飾った絹や金銀や宝石の輝きが眩しいほどだ。それが三人も並んでいるのだから、孔雀に威嚇でもされているかのような気がしてしまう。
「私たち、今日はお慰めしようと思って参りましたのよ」
「まあ、ですけど──」
朱華も微笑みを纏って、けれど内心では怯えながら、切り込んでみる。きっと、図々しいと思われるに違いないことを。でも、反感を持たれることは怖いけれど、身の程知らずだと侮ってもらえた方が色々聞き出しやすい、かもしれない。少なくとも、貴女たちの誰かが周妃に毒を持ったのですか、なんて尋ねる訳にはいかないのだから。それに、愚かな相手に教え諭すのは、多くの者にとって楽しいことだろうから。
「あの、周妃様も大変においたわしいことがあったばかりですから──その、僭越なこととは存じますけれど、他所からの声の方が聴いていただけるかもしれませんし。お力になれれば、とも思ったのですけれど」
「まあ、陶妃様はお優しいのですね」
朱華の狙い通りなのか、それとも相手の方が上手なのか。驚いたように軽く目を瞠る妃たちは、心から感心しているように見えた。
(お人よし過ぎて呆れてるのかもしれないけどさ……)
「恐れ入ります……。でも、何分お会いしたこともない方ですから。どうして……そのようなことをお考えになったのでしょうか。それは、ご自身のせいだとは考えたくないものなのでしょうけれど……」
今は、援護してくれる炎俊は、いない。女たちの気楽な席に、皇子が姿を見せて興を損なってはいけないものなのだとか。茶菓の支度や衣装選びまでは手伝ってくれた紫薇も、今は部屋の隅に慎ましく控えている。猫を被るにしても素で立ち向かうにしても、朱華ひとりの判断でどうにか乗り切らなければならないのだ。まあ、とりあえず初手は無知と無害を装ってみるのが無難だろう。
本当に訳が分からないと思っているかのように、頬に手をあてて首を傾げてみせると、辰緋宮の妃たちは果たして釣れた。あるいは、その振りをしてくれた。衣擦れのさやさやという音が響いて、女たちの忍び笑いに華やかさを添える。邪気のない笑い声に聞こえるけれど、その真意は知れたものではないから朱華の背には汗が伝った。
「私たちの長春君様は、本当に困ったお方ですわね」
「ええ。可愛らしい陶妃様をこんなに困らせておしまいになるなんて」
「人を疑うということをならさないから」
その汗は、にこやかに紡がれた言葉に潜んだ毒気によって、一瞬に冷めるのだけど。彼女自身が炎俊に怒鳴りあたり叱りつけるのを別にすれば、朱華は皇族に対して悪意をあからさまにする者を見たことがない。皓華宮の佳燕でさえ、至らない自分のせいだと言い張っていた。辰緋宮の妃たちの物言いは、夫への軽侮と同時に親しみも篭っているようにも聞こえたけれど──聞きたくない類のことでは、あった。
「ですが──あの、二の君様は、周妃様はお心が乱れているだけだと仰って……ですから、周妃様の言われるがままに皆様を疑われている訳では──」
恐らくは的外れのような気はしつつ、朱華は狼狽えた声を出した。これは、全くの演技と言うこともない。本当に動揺しているのが分かったのかどうか、美しい客人たちは美しい笑い声を唱和させた。
「ええ、でも、芳琳様や慶玲様には二心がないと思っていらっしゃるのでしょう」
「私たちだって、思うことも考えることもありますのに、ね?」
「あの方たちの仰ることを正面から取り合っても仕方ありませんのよ、陶妃様」
教えて差し上げなければ、と思って、と。にこやかに声を揃えられて朱華は言葉を失った。




