11.楽しみなこと
江家の資料は、陶祥文にとっても拾挙上がりの官吏たちにとっても興味深いものだったらしい。
「なるほど、江家が収める領地の動植物が詳しく載っているのだな……」
「鳥や虫まで。名家とはこれほど細かにものを視るものなのですね」
「草花はもちろんですが、虫の情報も《時見》にも役立ちましょう」
「当然、時期によって見られる姿や種が変わってくるでしょうからな。視た季節の特定には大いに役立つことでしょう」
「しかし、これを見てしまうと他の地方のものも見たくなりますな」
「本来ならば全国の資料をまとめて管理すべきなのだが。各家が要した年月と苦労を思うとなかなか寄こせとは言いづらいな」
初対面かつ身分の隔たりもある、敵愾心や試す魂胆も多分にあったであろう陶祥文も、官吏たちに馴染んでいるのがどこか微笑ましかった。
(悪い人ではないのよね、本当に……)
付け焼刃で多少の勉強をしたところで、朱華はまだ彼らに口を挟めるほどの見識はない。だから、江家の貴重な秘本を前に盛り上がり、さらに辰緋宮の志叡皇子が行っている施策を語らう炎俊たちを、やや遠巻きに見守ることしかできない。もちろん、夫の側近たちの顔と名前は二度目のこの機会でしっかり覚えてやろうと思っているし、完全にはついていけないなりに、後で炎俊に尋ねられるように耳についた言葉はしっかりと心に留めているけれど。
「絵を描く色にも情報を載せるのですか。興味深い試みです」
「距離の遠近と、過去と未来で色分けする……?」
「描き手の主観によるものならば参考程度にしかならないかもしれませんが」
「どの色を用いるかを統一するのがまた手間ですな」
「それに、絵の具も。各地に全ての色を十分に行き渡らせるのは費用も掛かる」
「だが、周知できれば利は大きい。少なくとも、絵を読み解くのに掛かる手間も時間もかなり減らせるのではないか」
「永州では、《時見》や《遠見》の目印に塚を置く試みをしておりますでしょう。そちらについても、色をつけてより区別がしやすくすることも考えられるのでは?」
「辰緋宮と足並みを揃えるべきかどうかも悩ましいでしょうな」
「そう……後々どちらかがやり方を変えるのでは効率が悪い。しかし、兄上に従う形になるのは面白くないな」
「まずは絵の具の確保がどの程度可能かを見積もるところから始めては?」
話を聞くうちに、朱華にも何となく分かってくる。志叡皇子と炎俊は、人柄だけでなく目指す政策も似ているらしい。つまり、《時見》や《遠見》の効率化。《力》によって得られた情報を、誰が見てもすぐに読み解けるようにすること。《力》の有無や強弱以外のところで、情報の精度をできるだけ上げること。
(良いことのように思えるけど、ねえ)
皓華宮の翰鷹皇子は帝位争いから身を退いたものとして、残る三人の皇子のうちふたりまでが同じような政策を掲げているなら、昊耀の国の将来は彼らが思い描いた道筋を辿る可能性が高い気がする。昊耀を守り導く《力》は《時見》と《遠見》に限ったものではないし、残るひとり、碧羅宮を占める第一皇子についてはまだ人柄も政策も宿す《力》も、朱華は何も知らないのだけど。
(ふたりとも、人の心が分からなさそうだから少し心配、かしら?)
陶祥文は、今は新しい知見に興奮して楽しそうに語らっている。でも、炎俊の指針を推し進めれば、遠からず陶家を始めとする《力》ある名家の権威は下がる可能性が多分にある。皇族の権威だって《力》に拠るのだし、本当に優れた《力》を持つ者たちにとっては憂うようなことではないのかもしれないけど。陶家も、辰緋宮の妃たちの実家も、江家の秘本に象徴されるように自家の領地を熟知することで権勢を築いてきた経緯があるはずだ。彼らの権益と面目と矜持を保ちつつ、新しいやり方を進めるのは反発も大きいのではないだろうか。
「陶妃様は、退屈なさっておいでではありませんか」
「え──いえ、そのようなことはございませんわ」
と、不意に横から声を掛けられて朱華は瞬きした。彼女に呼びかけたのはあの蔡弘毅、朱華と同じく黙って聞いているだけの立場だから、彼こそ退屈だったのかもしれない。それでも主君の妃に話しかけるまでに相当の決意がいったのだろう、蔡弘毅の生真面目そうな顔には緊張がはっきりと見て取れた。
「……お気遣いいただき、ありがとうございます、蔡校尉」
知らない相手ではないし、夫も、その他の者たちの目もある大庁ではある。それでも、夫以外の男と親しく言葉を交わすのが妃として適った振る舞いなのか分からなかったから、朱華はそっと目を伏せながら答えた。後宮の倣いについて、彼女には知らないことが多すぎると知ったばかり。炎俊に目線で助言を求めても、知らない振りなのか気付いていないのか、官吏たちとの議論に熱中しているようだった。
と、朱華の躊躇いに気付いたのか、蔡弘毅は取り成すようにぎこちない笑みを浮かべた。
「殿下から事前にお声がけをいただいておりました。お妃は政の場に慣れないゆえに、話しかけて差し上げるのが良いだろう、と」
「まあ……長春君様がそんなことを……」
(あいつ、また遣り手婆みたいなことをするのね……)
夫の気遣いを喜ぶ振りで、朱華は内心呆れ返っている。炎俊のことだから、朱華が退屈するかもしれないだとか身の置き所がないかもしれないだなんて心配した訳ではないだろう。ただ、朱華に子を産ませる相手としてこの男に狙いを定めたというだけのはずだ。先日、佳燕を探した時のことといい、少しずつ朱華と蔡弘毅を馴染ませようという魂胆が、透けて見えるようだった。
「殿下は、陶妃様を大切に思っていらっしゃるのですね」
「はい……とても、ありがたいことですわ」
寵愛が深い、といった言い回しをしないのが蔡弘毅らしいところだ。この男は、炎俊が女だと知っているから男女の仲については邪推しない。もう一歩考えを進めれば、朱華もいずれは誰かと子を為さなければならないことに気づきそうなものだけど──そうならないのが、彼の真面目さを窺わせて好ましい、かもしれない。
(そっか、私がこの人以外の種で懐妊したら、この人は悩んじゃうのか)
疑いを抱かせることになっては離反を誘うことにもなりかねないし。その点では炎俊の計らいはやはり理に適っているのだろうか。つまりは、朱華は蔡弘毅を相手にすることは決まったことだと考えるのが良さそうだ。それなら、少しだけ大事なことを漏らしても良いかもしれない。
「長春君様は、本当にお優しくて──今度、贈り物をくださると約束してくださいましたの」
「素晴らしいことです。贈り物とは、どのような……?」
蔡弘毅は衣装だとか宝石だとかを思い浮かべているのだろう。あるいは、さらに踏み込んで炎俊が女の格好をしたところを想像しているのかも。にっこりと曇りなく微笑んだ彼の表情から、朱華はそんなことを邪推する。
(まさか、思いつきもしないでしょうね)
だって、炎俊の贈り物は物ではないのだから。朱華が何よりも望むものといえば、雪莉との再会。そして、その妨げとなるのは陶家の思惑と、妃と同じ名前の侍女がいては怪しまれるかもしれないという可能性。
「まだ内緒、です」
「お披露目をしていただける機会はあるのでしょうか。あるのでしたら、楽しみです」
「そうですわね、きっと」
意味ありげに微笑みながら、朱華は炎俊の方を窺った。思うところも言いたいことも山ほどあるけど、彼女の夫が妃の願いを叶えてくれようとしているのは間違いがない。辰緋宮を訪ねたのも、そのための布石なのだから。
雪莉という名前が問題なら、変えてしまえば良い。性格からも容姿からも、朱華には朱華という名前が似合いなのだから。皇子自ら新しい呼び名を授けたいと言い出せば、陶家も否とは言えまい。偽の姫に仕立てた娘の本当の名を、覚えている者もいるだろうから。皇族を偽ったことが知られているのかもしれない、と。一度突き付けられれば、陶家は炎俊に従うしかなくなる。雪莉を星黎宮に寄こせと言われても、断ることはできなくなるだろう。
『赤の色を入れた名をつけることについては、辰緋宮に断りを入れた方が良いだろうが』
炎俊が唯一懸念していたのは、南方の赤を戴く辰緋宮、その主である志叡皇子の意向だった。黒を帯びる星黎宮の皇子が、妃に赤を帯びた名を与えるのは、兄皇子への挑戦と見られる恐れがあるから、と。幸い志叡皇子自身は弟の願いを快諾してくれて、残る懸念は、懐妊中の周妃の了承を得られるか否かだけ、ということなのだけど。
(確かに、義弟の嫁に、子供につけたい名前を取られたら嫌でしょうけど)
でも、それだって炎俊によれば男児の名前は考えても公主だった時のことは事前には考えないものではないか、と言われたし。だから──もう少しの辛抱の、はずなのだ。
「私も、とても楽しみなのですわ……!」
蔡弘毅には彼女の熱意は完全には伝わらないのを承知で、朱華は力強く宣言した。




