9.写経
辰緋宮からの「調整」とやらの連絡を待つ間も、朱華と炎俊はのんびり遊んでいるという訳にはいかなかった。だって、先に辰緋宮を訪ねてから、ゆうに十日は経ってしまった。炎俊もさすがに眉を顰めて怪訝な顔をしていたけれど、目下の者からの頼みごとだから催促することもできないし、結局は様子を見ることしかできないのだ。
遊ばず時を無駄にしないために、朱華が何をしていたかというと──
「手が、痛いんだけど……?」
絵筆を置いて手をぷらぷらと振りながら、朱華は炎俊に泣き言を漏らした。辰緋宮からの返事がないということは、江妃との「二度目」の会もまだないということ。もちろん、互いの夫君を抜きにして妃同士で会うことも可能ではあるのだろうけど、炎俊はそれを最後の手段と考えているらしい。
だから、《遠見》の江家の秘伝の書は、まだ星黎宮にある。というか、借りっぱなしなのを良いことに、炎俊は朱華に一頁ずつ描き写すことを命じていた。《遠見》で得た情報を第三者に伝えるためには視たものを紙に写し取る絵画の技能と、各地の動植物やもろもろの文化風習の知識が必須だとか。陶家でその訓練を受けてこなかった埋め合わせとして、急ぎ朱華を鍛える必要がある──というのは分かる。本来なら江家から出ることはないであろう貴重な書物を熟読できるのは貴重な機会なのも、分かる。
「力が入り過ぎているのではないか。筆の扱いも覚えねば肩にも響くぞ」
淡々と言う炎俊自身も、せっせと筆を動かして写本に努めているのだから、嫌がらせでの命令でないのは明らかだろうとは思う。第一、多分この女の性格からして遠回しな嫌がらせなどしないだろう。性格が良いという訳では決してなく、そんなことで時間を無駄にすることはないだろうと思うから。ただ、ひたすら筆を動かす日が続くうちに、朱華の胸にはある疑いが生じている。
「……ねえ、写し終わるまで辰緋宮に行かないつもりじゃないでしょうね……?」
「まさか。できる限り写しておきたいとは思っているが」
数日前から抱いていた疑問をやっと口にすると、一応は否定の返事が返ってきた。朱華の身の振り方よりも、江家の秘伝の書に気を取られているのではないか、と。それでも疑いによって目を半眼にする朱華に、炎俊も筆を置いて微笑んだ。
「もう飽きたのか。毎日練習した方が良いと、江妃にも言われたのだろう。家によって教え方は違うのだろうが、それだけは真実だろうと思うぞ」
「ええ。少しずつでもマシになっているとは、思うけど……」
互いの手元を見比べれば、原本の寸分違わない写しに見える炎俊のものと違って、朱華の写しは元を知っているから分かる、程度の覚書にしかならなさそうだ。だから、本当に綺麗な写本を作っておこうというのなら、朱華に任せるはずがないのも分かってはいる。
「次に江妃に会う時に、成果がないのではあちらの顔も立つまい。私としても、そなたが絵を描けた方が何かと助かる」
「……ええ、そうね……」
結局のところ、炎俊が言うのは常に正論だった。教えを乞うておきながら、会わない間に遊んでいては朱華の印象も悪くなってしまうだろう。これほど間が空くのを江妃も予想していたかどうか、自家の書物がちゃっかり写し取られることまで想定していたかどうかは分からないけど。でも、だからこそ早く返せと言われる前に絞り尽くしておこうというのが炎俊の考えなのかもしれない。
納得はしても、一度集中が途切れると手の痛みは再び筆を執るのを躊躇うほどになっていた。手を動かさない言い訳のように、朱華は口を動かしてみる。皇子の妃として、名家の姫として。彼女が知っておくべきだっただろうに教えられなかったことの隙間を埋めようと。
「ね、拾挙でもこういう試験があるの? 絵を描かせたり、花や葉っぱを見分けさせたり……」
「そうだな。《力》がないのにある振りをしている者をふるい落とす、最終手段ということになるか」
貴重な書を汚さないよう、茶も菓子も作業が終わってからだ。そして、その終わりを決めるのは炎俊の胸先ひとつ。彼女はまだ勤勉に筆を動かし続けているから、朱華に許されるのもほんのひと休みだけだろう。咎められはしないかもしれないけれど、朱華自身の負けん気が怠けることを良しとしない。それでも──少しだけ。右手の腱を揉みほぐす間くらいは、雑談で息抜きをさせて欲しかった。
「でも、私が拾挙を受けたら落とされちゃうんでしょ? 本当に《力》がある人をふるい分けられているの?」
朱華の《遠見》の《力》は、距離や精度で言えば拾挙を通った炎俊の側近たちにも劣らないらしい。でも、辰緋宮でされたように絵を見せられてそれがどこだか当てろとか、視たものを絵に描けと言われてもできはしない。炎俊の妃になって以来、《力》の使い方と評価のし方については訳が分からないことだらけだ。
「拾挙では官吏を登用するからな。《力》があり、かつ必要な知識と技能を持つ者が求められるのだ。女であれば、天遊林に居場所があるのだろうが」
「ふうん。じゃあ、殿方の方が大変なのかしら。身を立てようと思ったら、名家に生まれるか拾挙に受からなきゃいけないのね」
「ふむ。そういう考え方もあるか」
炎俊が筆を走らせる手つきは淀みなく滑らかで、筆先が紙を撫でる微かな気配はごく静かな音楽のようでさえあった。どこか聞き入ってしまいそうな、眠くなってしまいそうな音が、でも、朱華の何気ない呟きによって、止まる。
「励めば励むだけ報われるのだから、男の方が楽だと思っていたな……」
朱華を真っ直ぐに見る炎俊の、黒い切れ長の目。軽く傾げた首の角度。いずれも美しく、けれどもはや見慣れたもののはずだった。中身は見た目ほどに綺麗なだけではないのも分かっているから、何度も怒鳴りつけてもしまっている。でも、今聞いた呟きはひどく重く、かつ鋭く、朱華の胸を突いた、気がする。
「えっと」
炎俊が男だったなら、「四の君様」ではなかったかもしれない。これだけの《力》があって、勤勉で、貴賤を問わずに側近を拾い上げて。多少の狡さと怖さも持ち合わせている。訳ありの朱華だけではなく、名家から数多の妃を迎えて後ろ盾を得て、より早くから帝位争いに臨むことだってできたかもしれない。
朱華が思い浮かべたのは、百花園で会った女たちのことだった。出自こそ名門だけど大した《力》はなく、皇子に摘み取られる幸運を待ち望んで着飾り囀り競い合う浮ついた花たち。男にはそんな生き方はできないから、女の方が楽なのではないかと、ごく軽く考えてしまったのだけど。
「ご、ごめん……あんたに言うことじゃなかったわ」
名家に生まれながら《力》を持たないか上手く使えない雪莉や紫薇や、皓華宮の佳燕。逆に、庶民の生まれながら《力》ゆえに大罪に巻き込まれた朱華自身。女ながらに官吏並みの教育を受けたらしい江妃。女に生まれたがゆえの苦労は色々なのだろうけど、中でも炎俊ほど険しい道を課せられた者はほかにいないのではないか、と思う。
(母君様の《時見》のせいだって、紫薇が言ってたっけ。物心つく前から世間を欺いていたのよねえ)
それは、選ぶ余地がないのは朱華も、あらゆる女もそうなのだろうけど。発覚したら死に問われかねない秘密を抱えて公の場に立つ心の重石は、いったいどれほどのものだったのだろう。炎俊の苦痛や苦労を踏みにじることを言ってしまったと思って、朱華は慌てたのだけど──
「なぜだ? 思ったことは言えば良い。そなたは遠慮する質ではないだろうに」
炎俊は首を傾げる角度を少しだけ深めた後、姿勢を正してまた写本を再開した。何事もなかったかのように──というか、こいつの主観では本当に何事もなかったのだろうか。多分、無理をして平静を装うような奴ではない、とは思うのだけど。
(男の方が楽だから、男として生きられて楽だった、と思ってるのかしら……?)
割り切っているというか前向きというか合理的というか。炎俊らしいと言えばらしいけど、それで良いのか、とも思う。まあ──共に秘密を抱えて帝位争いに臨むのだから、くよくよしないのは良い、と結論するしかないだろうか。
「うん……これからも遠慮しないで行くわね」
自分をどうにか納得させると、朱華は再び筆を執った。休憩はもう十分取った。そろそろ絵の練習を再開しても良いだろう。筆に墨を含ませてから──ふと、思いついたことを言う。遠慮するなと言われた、その通りに。
「私、星黎宮に来て良かったと思うの。あんたが相手で、運が良かったわ」
「ふむ……?」
思ったことを言えといい、実際にそれを許してくれる時点で夫としては破格に物分かりの良い相手だろうか。皓華宮と辰緋宮の夫婦の在り方を見た後だと、なおさらそう思う。怒り怒鳴り苦言を呈するだけでなく、良いことを言うのだって躊躇うことはないだろう。
不審げな表情で手を止めている炎俊を見ると、萎えかけたやる気も蘇る。こいつを驚かせることができるなんて、滅多にない機会だろうし。
「本当よ?」
「ふむ」
にこりと微笑んで、念を押して。それから紙に目を落として筆を動かし始めると、炎俊も彼女に倣ったようだった。紙と筆が擦れる音がふたつ唱和する中で、炎俊がぽつりと呟く。
「……そなたが多少慣れたなら、また表に連れ出そう。前回よりは政の話にも口を挟めるようになるだろうし、陶祥文の顔見せにもなるだろう」
「そうね。二の君様からのお返事がいつになるかも分からないし。この隙にお勉強するのは良いのでしょうね」
炎俊の側近たちの顔と名前を反芻しながら、朱華も答えた。彼らも朱華を品定めしようとしてはいたけど、少なくとも炎俊の味方には違いない。それなら、他所の宮を訪ねるよりは、よほど気楽に臨めそうだった。
(あの人に会ったら改めてお礼を言わなきゃね……)
それに、蔡弘毅に会うのは純粋に楽しみかもしれない。佳燕を見つけた後、ろくに挨拶もできずに別れたきりだから。炎俊が本当に働きに報いた褒美を与えたのか、ちゃんと確かめなければならないだろう。




