4.志叡皇子
皇子たちの宮は、各々の方角に応じた色で装飾されている。東の碧羅宮は深く美しい青、西の皓華宮は清らかな白、北の星黎宮は威厳ある黒。これらの三つについては朱華は訪れたことがあるし、それぞれ異なった趣の壮麗さを自身の目で確かめている。残る南の辰緋宮については、象徴する色は赤。だからさぞ目に眩しい華やかな建物なのだろうと、何となく思っていたのだけど──
(意外と落ち着いているのね……)
実際に辰緋宮を前にしてみると、少なくとも目が痛くなるような派手な赤で彩られている訳ではなかった。かといって暗い色を使っているということでもなく、色の濃淡や木材の色合いによって全体に品の良い雰囲気が醸されている。基調となるのが赤色だけに、当然に明るく華やかな造作なのは間違いないのに、浮ついた気配がしないのは不思議なことだ。
どうやら朱華は、数多の妃を侍らせる第二皇子の住まい、ということで勝手に娼館のような建物を思い描いてしまっていたらしい。仮にも皇宮の一角に対して、誠に不敬な想像だったかもしれない。その第二皇子志叡にしても、ただの女好きではない──むしろ、恐怖を覚えるほどの真面目さというか四角四面さを垣間見てしまっている。皇族だの帝位争いだのが絡む限り、知らない人やものに対して、知らないままにこうだと決めつけるのは多分危険なことなのだろう。そう、朱華は心に刻むことにした。
兄皇子に対しては、炎俊でさえ頭を垂れて膝をつく。妃に過ぎない朱華はなお深く平伏し、額はほとんど床につかんばかりだ。とはいえ塵ひとつなく磨き上げられた床は、いっそ鏡のように輝いて綺麗なものだし、《遠見》に恵まれた彼女にとっては立ったままで弟夫婦を迎える志叡皇子の顔を窺うのに何の支障もない。
(ああ、こういう方だったの……)
教え込まれた優美なはずの所作で額づきながら、朱華は心中でそっと呻いた。美女を侍らせた放蕩者、などととんでもない。志叡皇子は、手跡から窺える人柄通りの謹厳実直を人の形にしたような容姿の持ち主だった。もっとも、それは平凡だという意味では決してない。真面目そうというなら蔡弘毅もそうだけれど、あの武官のような親しみやすさや朴訥さは、志叡皇子には無縁のものだ。整った顔が朱華たちを見下ろし、白い指先が延べられる様を視るのは、隙なく作り込まれた精緻な人形が動いているようで少し怖い。思えば翰鷹皇子だって、噂で聞く分には妃想いの一途な方、でしかなかったのだ。つくづく、話を聞いただけでは人は分からないものだ。
そのことを、志叡皇子も承知しているのかどうか──容姿に似つかわしい、水晶の鐘を響かせるような声が、炎俊に呼びかけた。
「立って、座るが良い。噂の陶妃を、直に見てみたかったのだ」
(また噂になってる!)
夫に続いて立ち上がりながら、朱華は笑顔が引き攣ることのないように苦労させられた。
翰鷹皇子の時も、似たようなことを言われはした。でも、あれは末の皇子がやっと娶った妃に対する興味でしかなかったはず。皓華宮の騒動をこの怖い方はどのように聞いたのか、というか炎俊はどのように聞かせたのか、隣で微笑む夫を揺さぶって問い質したい衝動と戦うのはなかなか難しいことだった。
「私の自慢の妃でございます。どうぞ間近にご覧くださいませ」
しかも炎俊は、いつになく笑顔でさらりととんでもないことを言ってのける。ちょっと小物の意匠を見せる、くらいの調子で人を──それも、形ばかりとは言え妻を! ──売り渡すようなことはしないで欲しい。朱華の想像が誤っていたなら、志叡皇子は弟の妃を見初めて奪うようなことはないのかもしれないけれど、でも、直に会って垣間見えた人柄の方が思っていたよりずっと厄介そうなのに。
朱華の笑みが引き攣りかけているのに気づいていないのか、それとも構わないのか──志叡皇子は、鷹揚に構えているようだった。
「容姿は問題ではない。翰鷹に聞く耳を持たせた機転がいかなるものか、確かめたいと思っていた」
「話を聞いても、兄上は信じられないと思われることでしょう。私としても、翰鷹兄上から白妃を奪って差し上げようかと思い掛けていたところでした」
「確かに。無理にでも引き離さなければ聞かぬだろうというほどの盲目振りだったからな」
翰鷹皇子の、愚痴のような陰口のような話題に興じる兄妹を見て、朱華は微笑の仮面を纏ったまま、内心で首を傾げた。
(この方たち、もしかしたら気が合うのかしら……?)
志叡皇子の言葉を拝聴するのと同時に、朱華は炎俊の表情も窺い視る。こいつが緊張して畏まる姿なんて想像もできないけれど、目上の皇子を前にしての作り笑いにしては炎俊が浮かべる笑顔は自然で、朗らかなものに見える……気がする。思えば、尊敬しているとはっきり言っていたことでもあるし。情より理屈を重んじる炎俊の性格なら、志叡皇子の生真面目さは好ましく見えるのかもしれない。それに、逆もまた然り、なのかも。
(お妃方はどう思われているのかしらね)
志叡皇子は、この場には妃の誰も伴っていない。朱華が《遠見》の手ほどきを受けるのは、とりあえずの挨拶が済んでから、夫たちが政について意見を戦わせる間に、ということになっている。辰緋宮の妃たちは、朱華のように夫の言動に悩まされているのか、それとも夫の考えを好意的に受け止めているのか。碧羅宮での茶会で会った時は、どの妃も美しくにこやかにしか見えなかったけれど。これもまた、直接顔を合わせて言葉を交わすうちに、見極めなければならないのだろう。
「──そなたの前に、翰鷹と会ったのだ、炎俊」
朱華の顔をしげしげと見ながら、志叡皇子は呟いた。見ると言っても、文字通りに書画でも鑑賞するような目つきであって、言葉はあくまでも炎俊に向けられていたけれど。
「左様でございますか。私には《水竜》の方々のものの視え方は分からないのですが、兄上には何か案がおありなのでしょうか」
翰鷹皇子の《力》は、水を操る《水竜》だった。その《力》をどのように治世に活かすのか、確かに朱華には想像もつかない。炎俊が意見を伺う以上は志叡皇子も《時見》か《遠見》の《力》の持ち主のはず。
「ああ、政の話ではなく、奥向きの用件だった。新しい妃を迎えるのに、我が宮の女たちの実家を頼るかもしれない、と。皓華宮にも宮を取り仕切ることができる妃が必要、しかし白家だけに任せていては白妃の立場が脅かされるかもしれぬ。ならばいっそ、他の家からも妃を娶った方が均衡が取れるからな」
「なるほど。行動するとなったらさすがにお早い」
すぐ上の兄皇子に対して、炎俊は例によって微妙に無礼な評価を下した。まあ、朱華も同じことを思わないでもないけれど。炎俊の動きに先立って辰緋宮を訪ねることができたのだとしたら、相当素早く動いたことになる。あの方のことだから、とにかく佳燕に害が及ばないように、寵愛はなくても名誉や実家への利益で満足する女を見繕いたい、という一心がそうさせたのだろう。それでも、きっと夫に他の妻が侍ることに対して、佳燕は心穏やかではいられないだろうけど──夫婦の想いが通じた今なら、乗り越えて欲しいものだと思う。
「私も陛下も兄上も、ずっと以前から勧めていたことだ。女は必ず争うものではないのだと、何度も言って聞かせたというのに、あの者は決して聞き入れようとしなかったのに……!」
志叡皇子の白く整った指先が、苛立たしげに卓を叩いた。翰鷹皇子の振舞いを快く思っていなかったのは、炎俊だけではなかったらしい。兄皇子ふたりや、畏れ多くも昊耀国の皇帝その人に苦言を呈されてもなお、心を曲げなかったらしい翰鷹皇子は良くも悪くも強い心の持ち主、なのだろう。朱華としてはこれまでの佳燕の心労の方に思いを馳せてしまうけれど。
(そりゃ、逃げたくなるでしょうね……)
夫の我が儘──としか思えない──によって、皇帝からも睨まれてしまうのかもしれない、などと思っていたのだとしたら。そしてきっと、かつての翰鷹皇子はひたすら大丈夫だ心配するなと言うだけだったのだろうから。
「──だから、そなたたちがどうやってあの者を説得したのかには大変興味がある」
「私に出来たのは、白妃を捕らえるところまでに過ぎませぬ。翰鷹兄上の御心を動かしたのは、我が妃の手柄でございます」
「なるほど」
佳燕の心中を慮って密かに心を痛めていた朱華は、皇子たちの話題が自分に移ったと気付くのに、一瞬遅れた。
「──え?」
首を傾げてみると、志叡皇子の鋭い眼差しが真っ直ぐに朱華を貫いていた。《遠見》か《時見》か、あるいはその両方か。いずれにしても、朱華には視られたくないものが多すぎるから、怖い。
「そもそも、炎俊が選んだところからして気になってはいたのだが。これはますますじっくりと見定める必要があるようだ」
「雪莉はお渡ししませんよ、兄上」
「弟の妃を奪ったりなどするものか。ただ、我が妃たちに倣えるところがあるならば聞かせたい」
(えええ……)
志叡皇子の目は、冷たいようでいて熱も篭っていた。本人が語る通りの、好奇心による煌めきだ。そんなことを言われても、朱華にしてみれば大したことをしていないとしか思えないのに。
(私にも結局よく分からなかったんだけど?)
今日の本題は、政策の話なのだろうに。そして、朱華は辰緋宮の妃に絵を習うつもりで来たというのに。どうして前座の世間話で、こんなに心臓が冷える思いをさせられなければならないのだろう。横目で炎俊を軽く睨みながら、朱華は語るべき言葉を探った。




