3.教わっていなかったこと
辰緋宮への書簡を認め終えると、炎俊は朱華に向き直って微笑んだ。相変わらず、美しいようで少し怖い、絶対に何か企んでいると分かる笑顔だ。まあ、この女にとって企みは日常のこと、じっくりと話を聞けば朱華にとっても悪い話ではない──かもしれない、のは段々分かってきているのだけど。
「辰緋宮を訪ねて、志叡兄上に依頼する内容と目的は先に話した通り。とはいえ、それを書面に残すのはまだ早計と判断した。ゆえに、表向きは別の用件を持って行く」
「なるほど」
それに、炎俊も確実に成長している。あるいは、朱華の扱いに慣れてきている。言葉を惜しむ方が、かえって彼女を反発させて面倒になると、ちゃんと覚えてくれたようだ。だから、今回は朱華も素直に頷くことができる。
炎俊は、既に朱華を陶家から切り離す策について教えてくれている。事前に相談するという発想を持ってくれたこと自体も驚きだし、その内容を聞いて、朱華は正直言ってものすごく嬉しかった。雪莉と再会したいという朱華の願いについて、それに彼女の立場や生い立ちについて、意外なほどしっかりと覚えていた上で考えてくれたと分かったからだ。
辰緋宮、と言い出した時は訳が分からなかったけれど、陶家への牽制だと言われれば分かる。陶家は財力も権力もある名家であって、炎俊に必要な後ろ盾であることには間違いないから。完全に敵対するのではなく、かといってあちらの思うままにさせるのでもなく。なるべく後腐れない形に落ち着かせるためには、あちこちに気を遣わなければいけないらしい。朱華が、表向きの兄である陶祥文とあって来たのも、その根回しの一環だった。
「そなた、絵は描けないのであろう?」
「え……絵? 描けるかどうかっていうのはどの程度のこと? そりゃ、部屋に飾るような綺麗なのは描けないけど……」
けれど、安心して炎俊との会話に臨むことができたのはほんの一瞬だけだった。唐突に繋がりの見えないことを切り出されて、朱華の声は揺らぐ。
(絵って……絵、よね……?)
彼女の夫はいったい何を言い出すのか、と思う。筆と硯を持たされれば、子供は紙の余白とかに落書きをするものではあるだろう。そういうことなら、朱華にも雪莉と遊んだ記憶がある。でも、決してわざわざ人に見せるようなものではないし、そんなことを敢えて聞くはずもないと思う。けれど一方で、炎俊の口ぶりからすると普通は絵が描けて当然、という含みがあるような気もする。皇族とか高貴な人々にとっては当然の嗜み、ということもないのだろうけど──
「やはり習っていないのか」
「……習うものなの?」
炎俊が得心したように頷いたので、朱華は自分の常識を疑うことになった。天遊林の倣いは複雑で、彼女はごく最近入って来た新参者に過ぎない。陶家の教育も、都合の良い扱いやすい駒を育てるためのものでしかなかった。もしかすると、操りやすいようにわざと大事なことを伝えていないとか、陶家でさえ知らないしきたりがあったりするのだろうか。
(まだ覚えることがあるの……!?)
厳しい躾けに耐えたつもりだったのに、と。うんざりするような絶望するような思いで朱華が息を吐くと、炎俊が宥めるような目を向けて来た。朱華を気遣うというよりは、無知な子供に寛容に接してやるような気配があるのが、ほんの少し気にくわないけれど。でも、必要な講義なのだろうと想像はつくから、大人しく拝聴することにする。
「《時見》や《遠見》で、政に携わる者には必須の技能だ。陶祥文も当然修めているはずだが。まあ、後宮に侍る妃には必要がないといえばない、な」
朱華に尋ねたのは念のためでしかなかったのだろう。その証拠に、炎俊は辰緋宮への書を送っても片付けさせていなかった筆を執った。同じく机上に残されていた紙に、何やら文字ではない線が描かれていく。
「わ、すごい……!」
炎俊が迷いなく描き上げた絵を見て、朱華は小さく歓声を上げていた。睡蓮が咲く池、そのほとりに佇む建物。墨のただ一色で描かれているのが信じがたいほど、漣が立つ水面も建物の塗られた壁や草葉の質感も、その光景が目に浮かぶように精緻に描かれている。
「どこだか分かるか?」
その絵の見事なこと、筆を置いた炎俊の問いにも、迷わず答えられるほどだ。
「星黎宮の庭でしょ? 先日、三の君様をお招きした──って、もしかして、視ながら描いてるの?」
「そうだ。よく気付いたな」
「だって、わざわざ枯れかけた花も描いてるもの。花弁の数まで同じ……」
言いながら、朱華も《遠見》を行っている。彼女が散策したことがある、星黎宮の一角だから焦点を合わせるのは一瞬だ。炎俊が視た角度を見つけるのも、大した手間ではない。彼女の目に映るここではない場所の景色と、紙の上に描かれた景色は、ぴたりと一致するように見えた。
朱華が、絵と実際の景色を見比べているのが分かったのだろう。炎俊は、紫薇が運んできた茶菓を口に運んで満足そうな顔をしている。早々に気付いた朱華は、生徒として及第点をもらえたらしい。
「私とそなたならば、同じものを視ていることに疑いの余地は少ない。が、《力》の弱い者だとそうも行くまい。本当に同じ場所や──《時見》の場合は時間を視ているのか、認識に齟齬や誤解がないか、常に検証せねばならぬ」
「でも、よっぽど上手くないと絵に描いても仕方ないわね……あ、だから練習するのね、普通は」
「そういうことだ。紫薇のように《力》を上手く使えぬ者でも、視えたものを取り合えず描かせれば何かしら分かることもあるからな。まあ、内々に仕える者ならば、そこまでの訓練をしないことも十分あるが」
つまりは、朱華が絵を習わなかった理由もそういうことなのだろう。朱華にそれなりの──何を視ているか確信を持つことができて、どの方角のどれくらいの距離とはっきり説明できるくらいの──《力》があるのは陶家も評価してくれていた。彼女の言葉が信用できると分かっているなら、わざわざ絵に描かせる必要もないということだろう。それに、きっとこれは官吏に必要な技能であって、妃がするようなことではないのだろうと思う。妃の第一の務めは夫の子を産むこと、《力》を次代に伝えること。夫との関係にもよるのだろうけど、必ずしも政治に口出しするものではないはずだ。というか、陶家が朱華にそれを望むはずがない。
「──で、絵を描けるかどうかと辰緋宮に何の関係があるの?」
ひとまず得心したところで、また次の疑問が芽生える。朱華も茶器に手を伸ばしながら、首を傾げる。視界の焦点を睡蓮の池から目の前に戻すと、炎俊が心得たように頷いている。
「永州の統治にあたって、色々と考えているのを見せただろう。その成果を携えて、兄上のご意見を伺いに行く、というのを第一の用件にするつもりなのだ」
「見せて良いんだ?」
「手の内を全て明かす訳ではないし、先方もご承知だろう。兄上も、《時見》や《遠見》で得られる情報の確度と精度の確保──それと、その平均化には興味をお持ちだ」
(ちゃんと考えてる皇子もいるんだ……!)
翰鷹皇子に振り回されたばかりの朱華としては、まともな政に精を出している皇族もいると聞くと驚きを禁じ得ない。それは、炎俊にも果たすべき政務があって、ごく真剣に取組んでいるのは知っていたけれど。何となく、官吏の類がしているのは机に向かうばかりの決まり切った仕事なのだろうと思い込んでいた気がする。より効率を求めて違うやり方を試そう、というのは──少なくとも話を聞く限りでは──極めて真っ当で、民にしてみればありがたいことのように思える。
「あの、誰が視ても同じように視られるように、ってヤツよね?」
「そうだ。それに、兄上は記録の方法についても統一したいと考えておられるとか。例えばこの山はこの角度から、この木からこの木までが収まるように描く、とか」
「ああ……視る方向が違うと全然違う場所に見えちゃうこともあるでしょうね……」
「そう。……興味を持ったようで何よりだ。女とは、こういうことには頓着しないものかと思っていた」
お前も女だろう、などと無駄なことはもう言わない。益のないことを口にして時間を無駄にするよりも、先のことを考えるべきだ。それでも何となく湧き上がるもやもやとした思いを呑み込むため、朱華はまず菓子を摘まんだ。黒胡麻の餡を、卵と乳脂の香り豊かな生地で包んだ焼き菓子だ。星黎宮に来て以来、毎日のように違う種類の菓子を口にできるのは素晴らしい。甘味で懐柔された、とは言わないけれど──茶を飲み干して口直しする頃には、げんなりとした気分を切り替えることができていた。
「……だから、絵、なのね? 二の君様のとこでも重視なさっているから。私が絵を描けないのは、問題になる?」
「いいや。むしろ良い口実になった。妃が教えを乞いたいということで辰緋宮に赴くことにしたからな」
朱華と同じ速さで菓子を平らげていた炎俊は、にこりと笑う。それを聞いた朱華の方は、もうひとつ菓子の甘みが必要な気がひしひしとしているというのに。
「教わるの……? あの字の方に?」
あまりにも整い過ぎて怖いほどだった手跡を思い出しながら。できれば勘弁して欲しい、という思いを込めて恐る恐る尋ねるのだけど。炎俊は朱華の気後れなどには構わずにあっさりと頷くのだ。
「兄上もそれほどお暇ではないだろうし、口実はあくまでも口実だ。辰緋宮の義姉上がたの中で心得がある方がおられるなら軽く手ほどきを受ける、くらいになるのではないか」
(それはそれで怖いけど……)
明らかに面倒そうな夫君に仕える妃たちも、絶対に面倒で厄介で恐ろしい。それでも、これも雪莉との再会のためだ。それに、《力》の扱い方について学ぶべきことが多いのも事実。そもそも辰緋宮を訪ねるのだけでも心して掛からなければならないとは思っていたし。
「分かったわ……。じゃあ、少しは絵の勉強もしておかないとね……?」
「うむ。私も時間を見つけて少しは教えられると思うが」
「うん、よろしくね」
炎俊に頷きながら、朱華は蔡弘毅の精悍な顔を何となく思い出した。もしかしたら絵の技術も拾挙の科目のひとつなのではないか、と思う。蔡弘毅は武官だから、官吏向けの試験とは科目が違うのかもしれないけれど。《力》を持つということ、それを奮うということは、朱華が思っていた以上に多くを求められるものなのかもしれない。




