1.「兄」との「再会」
久しぶりに百花園に足を踏み入れた朱華の耳に、女たちの囁き声が届く。
「星黎宮の陶妃様よ」
「四の君様に見初められた方……さすが、お美しい」
「《遠見》の《力》もそれは優れていらっしゃるそうよ。だからこそお目に留まったの」
「あやかりたいものねえ」
聞こえないとでも思っているのか、聞こえることを──ひいては、何かしらのとりなしがあることを期待しているのか。炎俊の実態も、彼女との閨も知らない女たちの勝手な噂話はどうにもむず痒い。朱華自身についての評も、どうも独り歩きしている気がしてならない。
(そりゃ、《力》もだろうけど……贋者だと分かって脅せるから、っていうのが最大の理由なのよねえ)
人には言えない秘密を持って、かつそれを皇子に露見させろ、などとは他人に勧められる手段ではない。そもそも決して口に出してはならず、悟られてはならないことだ。仮にも皇子の妃に収まった者が、そうでない女たちに物を言うのは波風の元なのだろうし。だから朱華は素知らぬ振りで夏の盛りの庭園を進む。日傘を差しかけてくれる宦官と、侍女の紫薇を従えて。ただ、どうしてもひと言は言いたくなってしまったから、ごく抑えた声で背後に囁く。というか、唇を動かす。
「……そんなに大層なことじゃないのにね……?」
紫薇は、炎俊や朱華と違って《遠見》は使えない。ただ、後宮に仕えて長い経歴からか、肩越しに垣間見える唇の動きを読んでくれたようだった。慎ましい桃色を刷いた紫薇の唇が、おっとりと見慣れた形の笑みを作る。
「長春君様のお目に留まることは、並大抵のことではございませんわ。陶妃様は、我が君に相応しい姫君でいらっしゃいます」
(あんまり嬉しくないわ……?)
炎俊と似合いとは、一体どういうことだろう。あの女と同じように顔色ひとつ変えずに不遜な企みに手を染めることができるということか、それともそういう夫を上手く御することができるということか。いずれにしても不本意かつ胃が痛くなるような評価に違いない。
紫薇に言い返したかったけれど、あからさまに振り向くことはできなかった。それに、朱華の方では相手の唇を読んで言葉を聞くことはできないのだ。だから言いたいことは呑み込んで背筋を正して前を向く。せっかく《遠見》の《力》を授かっているのだから、唇を読む術は教わっても良いかもしれない、と思った。炎俊が教師になると思うと、やはり落ち着かない考えではあったけれど。
朱華が星黎宮を出て百花園を訪ねているのは、人と会うためだ。星黎宮に招く訳にはいかないその相手は、男だからだ。百花園も後宮の一角である以上は皇族以外の男の存在はあってはならないように思うけれど、そこは妃になる前の女たちの住まいでもある場所のこと、皇子たちの宮や皇帝その人の居所よりは、幾らか規則が緩いらしい。具体的には、ある程度の家格や官位がある者が届け出た上で厳重な身体検査を受ければ許されるのだとか。
朱華に蔡弘毅の子を産ませるつもりらしい炎俊の例からして、絶対に例外や抜け道や欺瞞があるような気がしてならないけれど、突っ込んだところで益があるはずはないので朱華は考えないことにした。少なくとも、今日会う相手は身分や出自に間違いがなく、かつ届け出た本人だと朱華もよく知っている。その相手とは──
「お久しゅうございます、お兄様。お元気そうで何よりですわ」
「そなたも。変わらぬ美しさを見ることができて安心している」
陶家の嫡男、雪莉の兄、陶祥文だった。朱華が星黎宮に迎えられて、まだ半月も経っていない。けれど、それに先立って百花園に入るために陶家を出てから祥文と会うのは初めてだった。だから、久しぶりといってもさほど大げさではないだろう。祥文の品の良い顔立ちは最後に会った時と全く変わらず、立ち居振る舞いのそつのなさも、いかにも名家の御曹司らしい洗練され方だ。でも──陶家の屋敷の中とは違って、この百花園だと少々肩の辺りに緊張が見える気がするかもしれない。
「お父様やお母様も変わらずお過ごしでしょうか。分かっていたとはいえ、気軽にお会い出来ない身の上は心細くて……」
「おふたりとも、そなたを案じて日々過ごしていらっしゃる。健やかな姿を伝えれば安心なさるだろう」
「ああ、良かった……! お兄様、くれぐれもよろしくお願いいたしますね」
胸に手を当てて安堵の笑みを浮かべる──演技をするのは、朱華としても白々しいことこの上ない。祥文の方も、妹を案じる言葉を口にしながら眼差しも声も冷静そのものだ。まあ、お互いに赤の他人だと承知しているからある意味当然のことなのだけど。
炎俊が言うところの「天遊林で必要な根回し」のひとつが、陶家の者と顔を合わせておくこと、だった。皓華宮の騒動ですっかり忘れかけていたけれど、そういえば朱華は陶家の権勢のために後宮に送られたのだった。もちろん、炎俊に見初められただけでは目的を達成したことにならず、朱華を通じて一族の者を取り立ててもらわなければならない。無論、陶家としては一方的に自家のみが利益を得るのではなく、炎俊を帝位に押し上げるためでもあると主張するのだろうけれど。
峯──例の性悪婆の対応を紫薇だけに任せておくのは申し訳ないし、雪莉を星黎宮に引き取るためには陶家の合意が不可欠だ。だから、この辺りで実家の意向を確認しておくことの必要性は、朱華にもよく分かった。でも──
「星黎宮にひとりきりでは寂しかろう。誰か、気が利く者をつけてやりたいのだが。峯ならば、そなたもよく知っているはず──」
「まあ、でも、星黎宮の方々はとても良くしてくださいますの。身の回りのこと──私の好みも、もうすっかり覚えてもらって」
案の定、祥文が推してくるのは二度と会いたくない婆だった。本来なら、見目の良い娘を送り込んで皇子の手がつくのを期待するものなのだろうに。陶家にとっては、朱華を野放しにしておくのが不安で仕方ないのだろう。だから、自分たちの意のままになるお目付け役を、どうにか押し付けようというのだ。
(当然といえば当然だけど……!)
予想していた結果とはいえ、雪莉と再会するどころか峯のクソ婆を押し付けられるかと思うとぞっとしない。無理を承知で、朱華は少しだけ食い下がってみる。兄の心が動くことがないだろうけど、上目遣いで首を傾げて、可愛い妹のおねだりを装うのだ。
「峯よりは、もっと年の近い人がいてくれた方が嬉しいですわ。ほら……私が親しくしていた娘がいますでしょう?」
「さて、そんな者がいたかどうか。浮ついた者を送って陶家の名を落とす訳にはいかぬし……」
(こいつ、演技が下手だったのね……)
祥文が露骨に目を泳がせたので、朱華は内心で呆れの溜息を吐いた。身分を偽った女を、陶家の名で後宮に送ることは、見る者が見れば十分大罪に当たるはず。でも、ならば誰にも知られてはならないのだ。たとえ兄妹の対面の席だろうと、紫薇や、他の侍女や宦官も控えている。身内ではあり得ない言動や表情を記憶に留められたら、後々どんな災いがあるか分からないだろうに。……まあ、実際には既にあっさりと炎俊に知られている訳だけど。それでも、自分が関知できないところに隙があるのに気付いてしまうのは、決して気分の良いものではなかった。
(離れてからの方が人柄が分かるなんて、ね)
陶家にいた頃は、祥文の姿を見るのはたまに雪莉に菓子などを渡す時くらい、だった。屋敷の中では妹に甘い男、という程度の印象しかなかったけれど、公人としての顔ももちろん持っているのだ。雪莉に対する態度だけを見れば好感も持っていたけれど、だからこそ今日、顔を合わせる気にもなったのだけど、だからといって頼もしいかどうかはまた全く別の話だ。
「……でも、長春君様──炎俊殿下のご意向でもありますの。口煩い年配の人は星黎宮に入れたくない、と」
夫の──炎俊の言葉を思い出しながら、朱華はしおらしく俯いてみせた。正確にあの女が言ったことをなぞった訳ではないけれど、あの女の意向については嘘はない。
『娘を渡さぬようなら、ほどほどで切り上げて良い。そなたに対する人質をあっさり手放すほど、陶家も愚かではないはずだからな』
今日の席は、あくまでも探り合いということだ。陶家が雪莉を星黎宮に寄越してくれれば最善だけど、そうもいかないのは分かり切っているから。とりあえずは手札を見せるのが交渉にあたっての礼儀であり挨拶代わりと言ったところだろうか。
「そなたは、今の星黎宮には唯一の妃だ。眩いほどの寵愛ぶりと、評判になっているのは喜ばしいことだ」
「はい。畏れ多いことですわ」
(一体誰が噂してるのよ……)
碧羅宮で会った妃たちに、さっき漏れ聞こえた女たちに。女は噂好きなものだから当然なのか、それとも炎俊だか陶家だかが好き好んで広めたりしているのだろうか。皇子との関係を吹聴できるなら、陶家の目的のごく一部なりとも達成されているということで、まずは満足して欲しい。
「それから──長春君様は、お兄様に永州を視ていただきたいとの思し召しですわ」
「永州というと……では!」
永州は、炎俊が帝位争いの一環としてその手腕を振るうべき地だ。そこを、《遠見》を持って視るとは、つまりは永州の統治に陶家の力を借りたいとの申し出に他ならない。ここで目だった功績を上げておけば、もちろん皇子に恩を売ることもできる。祥文の目の色が変わったことを見て取って、朱華は唇を微笑ませた。兄をとりあえず満足させることに成功したなら、気持ちよく帰ってくれそうだ。
「炎俊殿下の麾下は、拾挙で見出した下々の者ばかりだとか。密かに案じてはいたのだが──」
「とはいえ、今いる方々も《力》に間違いはございません。それに、長春君様は、少し変わった《力》の使い方を試していらっしゃいますの」
「ほう?」
妃の実家に、少しだけ贔屓をしても良いと炎俊からは許可を得ている。《力》さえあれば、だれでも同じように《視る》ことができるように、との仕掛けの数々を。裏を返せば、《力》が心もとない者にとっては苦労させられるかもしれないけれど。まさか、陶家の嫡男がそのようなことは言わないだろう。
「詳しくは、追って書簡でお伝えいたしますね。我が家の《力》のほどを、長春君様にお見せするのが楽しみですわ」
あくまでも陶家の一員として振舞っているのだ、と。言外に念を押して、朱華は兄とのやり取りを締め括った。
これで、百花園での用事は終わり。でも、星黎宮で休むのはまだ早い。雪莉を迎えるための、次なる根回しは──第二皇子の紅き宮、辰緋宮だ。




