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炎華繚乱 昊耀国女帝伝  作者: 悠井すみれ
偽の姫、天遊林に入る
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5.初夜の閨にて

 指先のわずかな動きだけで、炎俊(えんしゅん)皇子は朱華(しゅか)に立つよう促した。平伏した体勢からでは、床に落ちる影さえ見えない程度の小さな動きだ。遠見の《力》によって視られているのを承知している動作に、朱華の背を冷汗が伝う。例えば、《力》を持たない者、あるいは持っていたとしても常に周囲を窺う程度の機知を持たない者は瞬時に自身の程度を露呈させてしまうのだろう。

 朱華だって、ほとんど息をするのと同じ感覚で遠見を行っている。壁の向こうで誰と誰が話しているかを盗み視て、扇や衣装の袖の陰の含み笑いを読みとって、不穏な気配を素早く見つけようと努めている。でも、自分がその対象になっていると知らされる感覚は初めてで、だからこそ非常に居心地が悪い。何より、《力》の有無よりもよほど質の悪い偽りを、朱華は隠している。皇族は、臣下や女たちの力や器を試すのに慣れているのだろうか。


(バレてはいけない……!)


 分かり切っていることを、朱華はもう一度強く念じる。ここにいるのが(とう)家の雪莉(せつり)姫ではないと、一族あげて皇室を欺こうとしているなどと、決して悟られてはならないのだ。


「良い目をしているな」

「恐れ入ります」


 遠見の《力》を認められたのか、それとも単に目が綺麗だ、という口説き文句なのか。判じかねたまま、朱華はおとなしく恐縮してみせた。


 立ち上がったところで、皇子の顔を正面から見ることなど思いもよらない。だから朱華は慎ましく目を伏せて恭順を態度でしめした。強気な雰囲気の彼女がそういう表情を見せると、男にとっては「堪らない」らしい。陶家の教師たちはそう言っていた。

 それでも、上目遣いの朱華と、当然のように見下ろす風の炎俊皇子の視線は一瞬絡む。皇子はさほどの長身ではなかったが、もちろん朱華よりは上背があるのだ。ただ、ほんの束の間見つめ合ったその間は、皇子の漆黒の目は柔らかく笑んでいたような気もした。


(見た目通りなら優しそう、なんだけどね……)


 強面(こわもて)ということもなく、女に手を上げそうな短気さや血の気の多さも見て取れない。ただし、それはあくまでも上辺だけを見た時の話。遠見の《力》も、人の内面を見るには何らの役にも立たなかった。


「妃にするなら遠見の《力》を持つ者が良いと思っていた。陶家の娘には前々から期待していたが――そなたの噂は、期待以上のものだった」

「まあ……わたくしなどが、殿下のお耳汚しにならなければ良かったのですが」


(遠見の《力》が欲しい? 駒になる間諜でも欲しかったのかしら。それとも次の世代のための()を探していた?)


 陶家が遠見で名高いように、昊耀(こうよう)国の貴族の諸家はそれぞれ連綿と受け継ぐ《力》がある。とはいえそれは全て皇室との婚姻によって下賜されたもの。皇帝や、帝位を狙う皇子たちともなれば、ひとつの身に複数の《力》を宿すこともあるという。優れた《力》を持つ後継者があることは、帝位争いにもきっと利するのだろう。炎俊皇子は、今から次の世代を視野に入れているのかもしれない。


(じゃあ、私の顔や身体はどうでも良い、のかしら……?)


 求められているのが、《力》だけなのだとしたら。安堵のような落胆のような気分を噛み締めていると、朱華の手が温かいものに包まれた。


「実際触れてみると思った以上に華奢なのだな」

「あ、あの、殿下……?」


 皇子に手を握られているのだと気付いて、朱華は思わず狼狽えた声を上げる。炎俊皇子の掌の感触は、思いのほか硬い。このほっそりとした容姿で剣を取ることもあるのだろうか。もしも《戦神》の《力》を備えているとしたら、余計な懸念なのだろうけど。


 間近に端正な顔が迫り、髪を整えるための香油の香りが朱華の鼻をくすぐった。朱華の手の甲を撫でる皇子はなぜか満足そうに笑っている。彼の目に朱華がどのように映っているかは分からないけど、気に入ってもらえたなら良かった――のだろうか。皇子の思惑がまだ読めないだけに、単純に喜ぶことはできなかった。


「炎俊と呼んで良い。そなたとは長い付き合いになるのだから」

「何と嬉しいお言葉でしょう。あの……では、炎俊……様? お酌をいたしますわ。こんな、立ったままでは――」


 皇子に――炎俊に近づこうにも、為人(ひととなり)が分からないのでは手の打ちようがない。せめてもっと言葉を交わしたかった。当たり障りのない、他愛ないやり取りだとしても、少なくとも手掛かりにはなるだろう。そう思って、朱華は必死に訴えたのに。


「ああ、いらない。酒は好きではないのに勝手に用意されたのだ。雪莉(せつり)、それよりも――」


 炎俊が彼女の言葉を聞き入れた様子はなかった。いや、違う。朱華の焦りに気付いた上で、取り合おうとしていないのだ。まるで、彼女の狙いを知っているからはぐらかそうとしているかのよう。酒器が乗った卓へ向かおうとする朱華の動きは抑えられて、違う方向へと導かれる。皺ひとつなく整えられた、寝台の方へ。


「殿下――炎俊様。夜はまだ長いですのに、もう……?」


(もうヤる気なの? ろくに喋ってもないのに!?)


 炎俊の力は強く、かさばる衣裳に足を取られる朱華では逆らえない。たとえ身軽な格好だったとしても、力の差は覆しようがなかっただろうけれど。そもそも、朱華だって抗う気はなかった。()()つもりで今宵に臨んでいるのだから。ただ、これではあまりに性急だ。従順な深窓の姫君だとしても、この展開に戸惑うのは多分間違ってはいないはずだ。


「そう、夜は長い。とはいえ無為に過ごすには短いものだ。人目を憚らず語らえる時間は長い方が良いだろう?」


 笑いを含んだ炎俊の声は柔らかく耳に甘く、そして一方でどこまでも有無を言わせない。朱華が助けを求めて護衛や侍女たちに目を向けても、皇子に命じられるまま、彼ら彼女らは下がってしまう。そして朱華は、炎俊とふたりきりで残された。




 薄い紗の(とばり)が下ろされると、朱華は寝台の上に閉じ込められたような気分になった。肉体が囚われたというだけでなく、彼女の視界――本来ならば壁も距離も問題にならないはずの遠見の()も利かなくなってしまっている。ふたりには広すぎる寝台も、その内だけに視界が限られるとなるとひどく狭く、息苦しい。そして朱華は、炎俊の言葉をやっと正しく理解した。


(人目を憚らないって、こういうことね……)


 思えば、貴人の閨など決して覗き見られてはならないものだ。それなら、天遊林(てんゆうりん)のどこにも増して念入りな結界が施されているのは当然なのだろう。人払いをした上に、覗き見の恐れもない。そのことに安心するというよりも、皇子への警戒心が高まるのは朱華自身にも不思議だったけれど。


「女の衣装は動きづらそうだ。一、二枚脱いだらどうだ?」

「ですが……」


 さらりと命じた炎俊に、情欲の気配が一切ないのも不審のもとだった。彼自身も上衣を脱ぎ落したのも、本当に寛ぎたいからでしかないかのよう。朱華が恥じらう振りをしてもやはり意に介されることはなく、軽く首を傾げて促されるだけ。


「……はい。仰せのままに……」


 だから朱華は、陶家の者たちが選び抜いたであろう豪奢な衣装を仕方なく脱いだ。衣装には罪がないから、せめて皺にならないように軽く畳んで寝台の端に寄せておく。鎧などではない、金銀と宝石で飾られた絹の布切れにすぎないはずなのに、それが喪われたというだけでどうも心細かった。下着のような姿になって、これから何をされるか分からないからだろうか。


(分からない……? そんなはずないわ、ヤることは決まってるんじゃないの?)


「これで話しやすくなったか」


 ()に待つことへの心構えをしようとしていたのに。動きづらいふかふかとした寝台の上でどうにか端然と座ろうとする朱華と裏腹に、炎俊はやや行儀悪く片膝を立てて足を崩していた。裾から覗いた(くるぶし)は白く、異性の肌の色だと思うとどきりとせずにはいられない。そして朱華を覗き込む目は悪戯っぽく輝いて、唇は緩く弧を描いている。妃となるはずの女を、優しく見守っているようにも見えるのに。


「では、腹を割って話そうか」


 けれど、炎俊が次に紡いだ言葉は鋭く朱華を貫いた。


「陶家の雪莉姫では()()者――そなたは一体、何者だ?」

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