27.夫婦の話
「佳燕……なぜ、炎俊を庇うのだ!?」
翰鷹皇子が叫ぶと同時に、宙に浮いて牙を剥いていた竜が崩れ落ちた。もとの茶に戻って、床に卓に染みを作る。竜の崩壊は、それを形作っていた者の動揺を示しているのだろう。狂気じみた目つきで炎俊だけを睨んでいた翰鷹皇子が、今はおろおろと自身の妃に手を差し伸べている。
多分、いつもなら躊躇いなく抱き寄せていたのだろうけど。恐らくは初めて、翰鷹皇子は佳燕に触れても良いものかどうか迷いを覚えたのだ。それだけ、佳燕は今まで自らの意思を示すということをしてこなかったのだろう。傍目には見苦しいほどの兄弟喧嘩を演じてもらう、という案は──炎俊は、本気で兄皇子を殴りたがっていたような気がしてならなかったけど──成功した、のだろうか。でも──
「炎俊に何を言われた? 何をされた? そなたがどうして、このようなことを……!」
(あ、ダメかも……)
あくまでも非を炎俊に求め、佳燕の意思を汲もうとしない翰鷹皇子を見て、朱華は内心でがっくりと肩を落とした。ここまで大掛かりな芝居を打っても、この方にはまだ何ひとつ大事なことが伝わっていない。
(違うんです、佳燕様は炎俊に背を向けてまで貴方に諫言したいんです)
佳燕は、炎俊を庇ってなどいない。常人離れした、天にも等しいと言われる皇族が《力》を尽くして争おうとする間に割って入るなど、生半可な覚悟でできることではない。ことに、それだけの《力》を持った者に背を向けるのは怖い。《遠見》や《時見》で背後が視えるかどうかはこの際関係ない。簡単に自らの命を奪える相手に、わざわざ無防備な姿を晒すことへの抵抗感は、もはや本能的なものと言っても良いだろう。あの気弱で臆病な佳燕が、炎俊の前に飛び出ることができたのは──もしかしたら翰鷹皇子が邪推しているような──炎俊への信頼では、決してない。自らの身を顧みずに、夫に伝えたいことがあるからだ。
でも、それを朱華が言っても仕方がない。朱華は、炎俊の妃なのだから。下手に口を挟めば、炎俊の手の者が佳燕を惑わし、翰鷹皇子を言いくるめようとしていると思われるだけ。
「待て、兄上。白妃を渡す訳には──」
「長春君様、お静かに。ここは、佳燕様にお任せしないと」
無粋な口出しは、更にもってのほかだ。だから、朱華は、佳燕を捉えようと手を伸ばしかけた炎俊の袖をそっと引いた。邪魔をされた炎俊が、唇を軽く尖らせて睨んでくるけれど、知ったことか。佳燕の暴挙ともいえる行動に、翰鷹皇子が気を呑まれたのは千載一遇の好機なのだ。この機を逃さず、お互いに言いたいことを言ってもらうのが良い。
(ほら、いつもみたいに甘いものでも食べてなさいよ)
「…………」
無言のうちに菓子を口元に突き付けてやると、炎俊は何か奇妙な虫でも見つけたような目つきで朱華を眺めてから、おとなしくそれを齧り取った。糖蜜を絡めた胡桃が噛み砕かれる、カリカリという音が響く──それを掻き消すのは、佳燕と翰鷹皇子のやり取りだった。
「わ、私は何も脅されてなどおりません……! 四の君様も雪莉様も、私を気遣ってくださいました。好きにして良いと仰ってくださいました!」
「そなたは白家に攫われて隠されていたのではなかったのか? 自ら出奔したというのは本当か? ……そなたの望みは、何なのだ……!?」
「長春君様……!」
朱華の耳元で、かり、ぽり、という音が聞こえている。炎俊が、何かを諦めたように菓子を貪り始めているのだ。
「……これがそなたの芝居か? 狙い通りになったのか? 始めからふたりで話していれば済んだことだろうに」
先ほどの意趣返しとでもいうかのように、朱華の口にも甘く硬い菓子が押し付けられた。口紅を落とさないように慎重に咥え、香ばしさを味わいながら噛み砕き──呑み込んでから、朱華は答える。
「でも、佳燕様はおひとりでは三の君様にお伝えすることはできなかったでしょう。三の君様も、すぐにはお耳を傾けてはくださいませんでした」
「我らが骨を折る必要はあったのか? そなたはこれで満足なのか」
(あんただって、楽しそうにしてたじゃない……)
文句を言いたいのを堪えて、菓子をもうひとつ口に運ぶ。皓華宮の夫婦の話は尽きないようで、手を握り合いながら何か語り合っている。傍にいる朱華も炎俊も目に入らないかのようだし、こちらとしても耳を傾けるのは憚られる。だから、こっちはこっちで話をしていても、聞かれることはないだろう。
「はい。皓華宮の方々にとって良い結果だったのはもちろんのこと、我が君様にとっても得難い教訓だったと思いますわ」
それでも、さすがに声は低めて囁いた。本人たちのいるすぐ横で、彼らの騒動から教訓を得るだのという話は大声ではしづらいから。
「教訓? 兄上にとっての、ではないのか? 私が改めるべきことなど何もないだろう」
「自らの心の裡さえ簡単には口に出すことができない者もいるということです。どうか御心に留めてくださいませ」
この兄妹は似た者同士だな、と思いながら、朱華は辛抱強く小声を保った。朱華としても始めからこうなると思っていた訳ではないけど、佳燕や繍栄の気弱さ臆病さには驚かされたのだけど。声を上げられる者はそもそもそれなりに強いのだ、という知見は、人の上に立つ者にはあっても良いような気がする。炎俊や翰鷹皇子の、無意識の傲慢さを見た後ではなおさらだ。
「我が君様は、寛容でいらっしゃいます。拾挙上りの、身分低い者も取り立ててくださっていますし」
「無論。能力や《力》ある者は相応に報いられてしかるべきだ」
「力なき者にも声はあります。そして、民のほとんどはそういう者たちですわ。その者たちの声をどのように聞き取るかは、大事なことかと存じます」
「ふむ……?」
有象無象の民の声など聞く必要はない、とでも思ったのかもしれない。炎俊は軽く首を傾げた。だが、とでも言おうものなら、朱華の疲れはいや増していただろうけど──幸いに、炎俊が何か言うよりも、翰鷹皇子がこちらに向き直る方が早かった。
「炎俊、雪莉姫。耳に痛い諫言ではあったが、聞き入れねばならぬようだ。どうやら随分な迷惑をかけたようだ。そもそも始めから難題を押し付けて──佳燕のために心を砕いてくれたことに、心から礼を言う」
「……別に私は何もしていない。妃の願いを叶えたまでで……」
炎俊の声から一切の感情が消えたのは、翰鷹皇子がその腕の中にしっかりと佳燕を抱え込んでいたからだろう。まるで、二度と離しはしないとでも言うかのように。恥ずかしそうに頬を染めた佳燕を見る眼差しの熱いこと、傍からはとても見ていられないと思う。真面目な顔で相対しなければならない炎俊に、朱華も今ばかりは大いに同情する。でも──佳燕は嫌そうには見えなかった。他所の宮でのほんの一時のやり取りであっても、この夫婦の関係が少しでも変わったなら良い、だろうか。
(諫言……芝居と、分かってくださったの?)
炎俊は、本気で言っていたかもしれないけれど。まあ、言わない方が良いことも、世の中には、ある。
「そなたにも雪莉姫にも、感謝の言葉は尽きぬが、一端皓華宮に戻らせて欲しい。佳燕には休息が必要だからな。それに、今後のことについて──いかに白家を満足させるか、話し合わねばならぬ」
やや声を低めた兄皇子の言葉を聞いて、炎俊は急に目が覚めたように目を開き、一歩足を踏み出した。
「他の娘を娶られるのか? 兄上が? 帝位についてはどうなさるおつもりか?」
「そなたと兄上たちのいずれかに譲ろう。そう警戒するな」
炎俊の関心は、やはり帝位を争う相手を蹴落とせるかどうかにしかないのだろう。翰鷹皇子にまで苦笑されてしまうほどに。
(まあ、ほんとうに譲ってくださるなら炎俊も満足、よね……?)
炎俊には兄やその妃のために、などという気はなかったのだろうから。朱華としては、ふたりの仲が収まるべきところに収まったのなら良いと思う。翰鷹皇子の変貌ぶりがあまりにも急で、信じ難くはあるけれど。
でも、朱華の疑念に気付いたはずはないだろうけど、翰鷹皇子は屈託なく笑った。憑き物が落ちたかのように、とはこういうことを言うのだろうか。
「帝位に就かずとも、便宜を図ることは可能であろう。愛はなくとも、新たに娘を迎えることもあり得るだろう。炎俊、そなたは身をもって教えてくれたのだろう?」
「私は──」
そんなつもりはなかった、と。炎俊が今まさに言おうとしていたのがはっきりと分かったので、朱華は敢えて皇子たちのやり取りに口を挟む非礼を犯した。
「佳燕様! お気持ちを伝えられたようで、大変よろしゅうございました! 私も嬉しく存じます!」
「雪莉様……」
炎俊は今ひとつ分かってくれていなかったけれど、朱華ははっきりとそのつもりだったのだ。建前だけでも整えて、愛は密かに貫けば良いのだ、と。夫を愛している訳ではない彼女が考えたことだから、佳燕にとっては朱華が想像できない辛さがあるのかもしれないけれど。でも──試みる気になってくれただけでも大きな収穫のはずだった。だから、佳燕の頬にゆっくりと笑みが広がる様は、美しく愛らしいだけでなくて、朱華を喜ばせ舞い上がらせるに十分だった。
「ありがとうございます。雪莉様のお陰ですわ」
「いいえ、私なんて──」
「雪莉様は四の君様にも恐ろしいくらいに真っ直ぐに意見なさるのですもの。夫婦とは、妃とはかくあるべきなのだと──私も、教えていただきました」
「はい……?」
けれど、はにかんだように微笑む佳燕の言葉に、朱華の笑顔は固まってしまった。彼女自身と炎俊が夫婦のあるべき姿なのだと──そのようなことは、あり得ない。あってはならないし、佳燕に見習われても困る。
「あの、佳燕様──」
「お妃の諫言にも耳を傾けてくださる御方です。きっと、民のためにも心を砕いてくださるのでしょう。だから──その、私の長春君様には畏れ多いことですけれど、これで良かったのではないかと思います」
(何か、誤解をされている気がするわ?)
晴れやかに笑う佳燕に、頷くことも首を振ることもできないまま、朱華は曖昧に微笑むしかなかった。そんなつもりではなかった、などと。彼女だって言ってはならないのは分かっている。
炎俊の方は、と見ると、この女も口を噤むことの賢明さを一応分かってはいるようだった。何もかもが面倒臭いとか、訳が分からないといった思いが強いのかもしれないけれど。とにかく、上手くまとまりかけているのだから余計なことを言ってはならないのだ。
手を取り合って帰途に就く皓華宮の夫婦を見送る、星黎宮の夫婦は、多分貼り付けたような笑みを浮かべていたはずだ。




