26.歪な鏡像
「どうでも良い、だと……?」
ぎり、と。翰鷹皇子の歯軋りする音が、朱華の耳に届いた。季節は初夏で、窓の外に目を向ければ新緑が目に染みるはず。なのに、氷の冷気を感じるのは、皇族の怒りが恐ろしいからだ。度を越えたとさえ見える寵愛を向ける妃が目の前にいるというのに返さないと明言されて、しかも手ひどく貶されて。怒らないでいろという方が難しいだろう。しかも、息を詰めて見守ることしかできない朱華と佳燕と裏腹に、炎俊は涼しい顔で首を傾げて、兄皇子を挑発するのだから。
「どうでも良いだろう。白家の血を引くとはいっても、《力》を使いこなすこともできないのだから。本来ならば婢女がせいぜい、我が宮には全く持って相応しくない」
「──っ……!」
炎俊の言葉に、ふたつの呻き声が応えた。怒りを噛み殺すような翰鷹皇子のそれと、悲鳴のような佳燕のそれと。妻のために怒った夫に対して、当の妻は炎俊の評価の正しさを知っているのだ。だからこそ夫の元から姿を消そうとしたのだとしても、他の者からそうと突き付けられるのは辛いはず。その心中は察するにあまりあるけれど、朱華にできるのは佳燕の手を握って支えの存在を伝えることくらい。それだって、翰鷹皇子からは人質に取っていると見えるかもしれない。
今のところは、翰鷹皇子ももっぱら炎俊を相手にしていてくれるのだけど。
「だが、我が妻だ。私の前で佳燕を愚弄するな。私は帝位争いから退く。そなたに与しもしてやろう。佳燕に手を出していないのだという言葉を、信じてもやる。ただ──その代償に、佳燕を返せ。そうすれば今の言葉は忘れてやる」
「白妃を星黎宮に留めておけば、兄上は私に逆らえまい? 兄上が望まれるか否かはどうでも良いのだ」
思いのほかに冷静さを保って訴える翰鷹皇子に涼しい笑みを向けて、炎俊はさりげなく朱華と佳燕を引き寄せた。それぞれの腕にひとりずつ、両手に花の格好だ。朱華にとっては筋書き通りの立ち位置だけど、佳燕にとっては夫以外の男に抱かれた格好になる。恐怖に強張る気配が炎俊の身体越しに伝わって来た。
(どうかどうか、気付かないでくださいね……!)
逆らえないながらに、佳燕は懸命に炎俊から身体を離そうと努めているらしい。これなら、炎俊が女だとバレる恐れは少ないだろうか。そもそも、炎俊は佳燕の方にはほとんど力を入れていない。形ばかりに──というか、翰鷹皇子に見せつけるために手元に確保しただけで、しっかりと抱え込まれているのはむしろ朱華の方だった。朱華自身が提案したこととはいえ、腰の辺りに他人の──それも炎俊の手指が這う感覚は、少しくすぐったくて少し気色悪い。
人前で恥ずかしい、という感覚は皇族には無縁なのかどうか。翰鷹皇子は変わらず弟を睨み、炎俊も澄ました笑みでそれを受け止めている。
「なぜだ。そなたも一度は納得したことではないか」
「考えを変えたのだ。兄上同様、私も雪莉ひとりを愛したい──が、妃をただひとりに留めるのもあまりに愚か。皓華宮の有り様を見れば知れよう。白妃は兄上を見かねて宮を出たと言っていたぞ」
「佳燕……! では──」
では──つまり、翰鷹皇子はことごとく対応を誤っていたのだ。佳燕も朱華も、面と向かって言うにはあまりに畏れ多いことだから、炎俊に言ってもらうしかない。皓華宮に仕える者たちも、薄々気付きながら進言することができなかった、その不自然さも、察してもらえないだろうか。
炎俊だって、翰鷹皇子とは本来立場の隔たりがある。弟は兄に従うものであって、賜った宮の序列もあるのだから。だから、普通に茶菓を囲んで懇々と諭したところで、翰鷹皇子が聞き入れてくれたかどうかは怪しかった。……何より、炎俊は兄のために面倒を被る気はさらさらなかっただろう。
「私は兄上の轍は踏まぬ。だから、面倒が少なそうな女を置くことにした。目くらましといったのはそういうことだ。私は本気で帝位を目指しているからな。白家も、娘の居場所が変わったところで文句を言うまい」
(でも、ここまで挑発しなくても良いでしょう!?)
愉しげに声を弾ませる炎俊とは裏腹に、朱華の心臓は音高く弾んでうるさいほどだ。夫君の怒りか、あるいは自身の行く末を恐れてか、佳燕の荒く引き攣ったような息遣いも気に懸かるのに。皇子同士のやり取りに口を挟むこともできない有様だとしたら、朱華の目論見は外れてしまうことになるのに。
とはいえ、それこそが炎俊の狙いなのだろう。この女は、勢いに任せて佳燕を人質に取る形に収めたいのだ。朱華は、今日が最後の機会だと約束しているから。翰鷹皇子や佳燕が何を言っても、あるいは言わなくても、この場での結論がこの夫婦の結末になる。だから、炎俊はなるべく話を簡単に済ませようとしているのだ。
(ほどほどに、ほどほどに、ね……?)
心中で祈るように繰り返しつつ、自重を促すつもりで炎俊の胸に手を添えると、分かっている、と言いたげに一層間近に抱き寄せられた。多分、分かっていないけれど。炎俊は、芝居の筋書きをなぞっているだけだ。翰鷹皇子に目に余るほど、あるべき規を越えるほどの過ぎた寵愛を見せつける、という。妃可愛さに賜った宮を蔑ろにして他の女を寄せ付けないのも、妃可愛さに兄皇子の妃を奪って目くらましにするのも。いずれも本来はあるべきではないこと、鏡映しの歪な像だ。言葉に拠らず、翰鷹皇子が自らを省みてくれるのかどうか──少なくとも、まだ炎俊を責めるのは言葉だけに留めていてくれるけれど。
「──誰かひとりを想う心があるのなら、どうして私から佳燕を奪う? 他の女でも良かったのだろうに。それこそ白家でも、他の家でも。形ばかりの妃だろうと、星黎宮の皇子と繋がりを持つのを喜ぶ者は多かろう」
(貴方も! そうしてくれれば良かったの!)
朱華の切なる叫びは、もちろん口をついて出ることはなく、ただ胸の裡で木霊するだけ。ごくごく真剣な顔で告げた翰鷹皇子に応えることができるのは、皇子である炎俊だけだ。宥めてくれるようなことは期待できず、兄皇子の怒りを煽るだけだと分かり切っているのが怖い。
「手近に都合の良い者がいたのだ。雪莉と争わず、差し出がましい振舞いをしないような女は貴重だろう。──それに、私は兄上に恨みがある」
「恨み? 何のことだ?」
これだけは筋書き通りの台詞ということもなく、本心からの恨み言なのだろうけど──不穏に声を低めた炎俊に対し、心底不思議そうな面持ちで首を傾げる翰鷹皇子を見て、朱華は密かに絶望した。やはり、皇族には自省などということは無縁なのだ。自らは常に正しく、周囲は常にその意を謹んで受けるものと信じ切って疑っていない。炎俊でさえ、規格外に話が通じる存在だったということらしい。
これでは、炎俊が挑発するままに、ふたりの皇子は決定的に仲違いしてしまう。佳燕も夫君から引き離されて、星黎宮に留まるしかない。佳燕が翰鷹皇子の本心を信じてくれれば、と思っていたけれど、信じた上で引かれることになっては意味がない。炎俊の隣で固まったまま、佳燕は声を上げることさえできないでいるようだった。
翰鷹皇子の態度は、炎俊にとっても不本意かつ不快なものだったのだろう。朱華が恐る恐る見上げる先で、整った眉が寄せられ、艶めいた唇が歪められた。
「私は納得したのではない。させられたのだ。ご自身の命でもって脅されたのをお忘れか? 決して、気分の良いなさりようではなかった」
「……ならば今度はそなたの命でもって脅そう。佳燕と離れるくらいならば、死罪を賜ろうとどうでも良い」
(あ、皇族も罪に問われるんだ……)
緊張感に堪りかねての現実逃避なのかどうか、朱華はそれこそどうでも良い情報を拾った。皇族殺しは、当の皇族にとってさえも死に値する大罪らしい。宮を失い、帝位争いから弾かれるだけが罰ではないのだ。考えてみれば当たり前のことだけど、でも、今の翰鷹皇子にとっては何らの妨げにならないらしい。
「長春君様……」
紫薇が淹れてくれた茶が、ゆらりと宙に立ち上がった。炎俊を威嚇するように、薄緑色の半透明の竜が顎を開く。小さいながらに牙まで備えたそいつは、翰鷹皇子の《力》が生み出したものに違いない。
(どうするの? 本当に大丈夫なの?)
《水竜》の《力》の使い手は、その気になれば茶の一杯でも人を殺すことができるのだとか。先日、ほかならぬ翰鷹皇子が言っていたことだ。あの時は冗談めかしていたけれど、今回はただの脅しで済むだろうか。水の──というかこの場は茶の──牙も剣も、使い手が倒れれば形を失いただの液体に戻るのだという。だから、翰鷹皇子が逆上して強硬手段に訴えたとしても、命を奪われる前に殴り倒すか締め落とせば良い……らしい。そう、炎俊は言っていたのだけど。蔡弘毅の例からしても、《闘神》の《力》が可能にする身のこなしは確かに常人離れしているらしいのだけど。
「雪莉の命で、と言わないところは認めて差し上げよう。しかし愚かな真似をなさる。私を倒して白妃を連れて逃げる──そのようなことが可能とでも?」
「そなたは帝位を諦めまい。決して私を殺せぬならば、勝機もあろう。何、命を奪わぬまでも気を変えることができれば良いのだ」
朱華の腰に回っていた炎俊の手が、離れた。男物とはいえ動き辛そうなかさ張る衣装の裾が捌かれて、沓が覗く。炎俊の眼差しさえも常になく鋭くて、水の竜の牙を掻い潜る隙を狙っているのだと分かってしまう。
(ほんとにやり合うの!? 星黎宮のど真ん中で!?)
何をやっているんだ、と思うし、止めなければ、とも思う。でも、殺意としか思えない鋭い気配を放つ皇子ふたりに、朱華の身体はどこも言うことを聞いてくれない。辛うじて、舌なら動かせる、だろうか。
「長春君さ──」
「長春君様! もうお止めください!」
部屋に響いたのは、でも、朱華のひび割れ引き攣った声ではなかった。もっと高く、より切実な恐怖を帯びた声の主は──
「佳燕!? そなた、何を……!?」
肩を震わせて、両手を広げてふたりの皇子の間に割って入ったのは、それだけの勇気を振り絞ったのは、ひたすらか弱く儚げにしか見えなかった佳燕だった。




