25.兄弟対決、再び
翰鷹皇子を迎えるのは、先日とは違う、池のない庭に面した部屋だった。先に《水竜》の《力》で脅されたことを、炎俊は根に持っているらしい。確かに、翰鷹皇子が逆上したら何をするか分からないから、正当な警戒ではあるのかもしれない。とはいえ、仮にも皇族を相手に茶を出さないことなどあり得ないから、結局は無駄な抵抗でしかないのだろう。
侍女の繍栄を従えて現れた佳燕は、朱華の予想通り、脂粉でも隠しきれない白い顔をしていた。ほんのわずかとはいえ寄せられた眉を解いて差し上げたいと、朱華は努めて明るく微笑んだ。
「佳燕様、おはようございます。ご機嫌は──麗しくないとは、存じますが」
「雪莉様……」
はぐれた雛が親鳥を見つけた様を思わせる素早さと縋るような眼差しで、佳燕は朱華の傍に駆け寄って来た。信用してもらえたなら良い、のだろうか。これからの一幕では、きっともっと怖がらせてしまうであろうことが申し訳ないのだけど。
「私……長春君様にどのような顔でお会いすれば良いのか──このような大事にしてしまって……」
「三の君様の御心は、すぐにも確かめられますわ。私と、我が君様とで証明して差し上げます。ですから、佳燕様はどうかご夫君だけを見ていてくださいませ……!」
無理は承知で、朱華は佳燕の目を見つめて訴えた。黒く、常に潤んだような美しい目が、過去も未来も見通すことができるというのは不思議なことだ。たとえ自らの意思で時と場所を選ぶことができず、時に恐ろしい情景に脅かされるとしても。佳燕が《時見》の《力》を制御できたなら、この先の場面を見て少しは安心してもらえただろうか。
(……ううん、やっぱり怖いでしょうね。音は聞こえないんだもの……)
過去や未来や彼方の地を「絵」としてしか見ることができない《時見》も《遠見》も、便利なようでやはり制限が多い《力》だ。何より、佳燕が並の姫君であったなら、翰鷹皇子に見出されることもなかっただろう。だから、このようなことは、考えるだけ意味のないことなのだろう。
朱華の作った笑顔は、佳燕を信じさせるには少々力不足だったようだ。今にも倒れはしないかと心配になるほど頬を青褪めさせて、儚い佳人は朱華を縋るように見つめてくる。
「あの……四の君様は長春君様にはどのようにご説明してくださったのでしょうか……? 私、後先も考えずに飛び出してしまいましたから……。決して、我が君に叛意があった訳ではなくて、むしろ私がいない方が──」
翰鷹皇子の勘気を恐れる思いは、理解できる。でも、その上で、佳燕の心を完全に安らげることなど不可能だ。だから、朱華はいつまでも続きそうな愚痴めいた言い訳めいた訴えを、半ば強引に遮った。
「全て、私の長春君様にお任せくださいませ。佳燕様は、三の君様だけを見ていてくださればよいのです」
「あの、でも」
佳燕の目がおどおどと彷徨って、炎俊の顎の辺りを撫でた、気がする。皇子の顔を正面から見るのは無礼だということを差し引いても、この方には炎俊を直視する勇気がないかのよう。炎俊の方でも、面倒そうに視線を外して口を開こうとしないのは、良いのか悪いのか。……良いと、思おう。これから何をしようとしているかを佳燕に漏らされでもしたら、翰鷹皇子が目にするのは失神した愛妃の姿になってしまう。そうなれば、今度こそ《水竜》の《力》で作られた剣は、炎俊と朱華を狙うことになるだろう。
(まあ、どの道そうなるかもしれないけどさ……)
何しろ、翰鷹皇子は帝位に興味がないと言い切っている。炎俊を害した罪に問われて皓華宮を失うことすら、大した損失とは思わないかもしれない。佳燕がいることを忘れないようにしてもらって、それでも万が一があった場合は、炎俊が《闘神》の怪力に物を言わせてくれるということだけど。皇族同士の本気の兄弟喧嘩がどのようなものか、想像するだに気が滅入る。──でも、それも佳燕には見せなくて良いことだ。
「ご心配には及びませんわ。三の君様が何を仰ろうと──仮にお怒りになったとしても。長春君様がどうにかしてくださいます。佳燕様は、ご自身の御心の向くままに振舞っても構わないのです。先日の件は、きっと練習にもなりましたでしょう」
「まあ……雪莉様は、なんて畏れ多いことを……」
不敬も度を過ぎると、恐れることさえ忘れてしまうのかもしれない。朱華が自暴自棄のように浮かべた笑みに応えて、佳燕はやっと頬を和らげてくれた。紫薇と繍栄が用意している茶菓の香りも、ひと役買ってくれただろうか。怯えたような表情が多いだけに、たまに見せる佳燕の控えめな微笑は可愛らしくて──翰鷹皇子もこれが見たいのだろうと、何となく想像することができた。
約束の時間ぴったりになると、星黎宮は翰鷹皇子の大声で揺れた。
「佳燕! よくぞ無事で──」
平伏する朱華や侍女たちを蹴散らす勢いで、翰鷹皇子は真っ直ぐに佳燕に駆け寄る。朱華にはもちろん《遠見》で視えるけれど、他の者たちだって足音と衣擦れの音でそうと知れるだろう。さすがに蹴り飛ばされた女はいなかったようだけど、あるいは宙を切る勢いの袖に髪を乱され衣装の裾を踏まれて、あちこちから高い悲鳴が上がる。佳燕の隣に控えていた朱華も、翰鷹皇子の身体で押し退けられそうになったが──
「私の妃を足蹴にしてくださるな、兄上」
「炎俊……ああ、すまぬ。気が動転してしまった」
間一髪のところで、炎俊が盾となって庇ってくれた。もちろん、朱華を守ろうという意図ではなく、佳燕と翰鷹皇子の間に割って入る立ち位置を確保しようというだけだけど。でも、翰鷹皇子も佳燕も、まだそれには気付いていない。
「そなたにも雪莉姫にも、改めて礼を言う。白家の呪を、よく掻い潜ってくれたものだ」
翰鷹皇子は、満面の笑みで弟に軽く頭を下げさえしているくらいだ。それは、佳燕が見つかった経緯を何も知らない──炎俊が、知らせていないからだ。この方は、まだ白家が佳燕を攫って隠したのだと信じ込んでいる。
「雪莉様……!?」
佳燕が、ごく抑えた声量で悲鳴を上げた。指先が、皇子たちには見えないように朱華の服の袖をそっと引く。この方も、翰鷹皇子の誤解をこの場で初めて知ったのだ。真実を──夫君から逃げて姿を眩ませたのだと知られたら、いかなる勘気を被るのかと、恐れ怯える気配がひしひしと伝わってくる。朱華としては、無言で壁になるくらいしかして差し上げられないのが申し訳ない。だって、朱華も怖いのだ。翰鷹皇子が全てを知った時に、どんな反応を見せるのかが。それに、炎俊はもう芝居の役に入り込んでいる。
「礼を言われるのはまだ早い。私は白妃をお返しするとは言っていないのだからな」
「……何?」
うっとりするような晴れやかな笑顔で炎俊は宣言し、翰鷹皇子もやはり笑顔のまま聞き返した。事前の口約束を完全に反故にされることなど、さすがにすぐに呑み込めるはずもないだろう。その点は、朱華も翰鷹皇子に深く同情する。多分、とても僭越なことではあるのだけれど。
けれど、炎俊は今日の役がいたく気に入っているのだ。だから、兄皇子の察しの悪さを嘲るように唇に弧を描かせ、朗らかに軽やかに続ける。
「白妃には、この先ずっと星黎宮にいてもらう。皓華宮に戻ることはないと思っていただきたい」
「……馬鹿な」
低く、翰鷹皇子が漏らした声に、佳燕が震えるのが伝わって来た。顔も──視ようと思えば視えるけど、そんな余裕はない。恐怖に引き攣った顔を視てしまったら、朱華も竦んでしまいそうだ。
「なぜそのようなことを言い出すのだ、炎俊!? 私に何の怨みが──それとも、お前も佳燕に恋慕したか!?」
「兄上こそ馬鹿げたことを」
なのに、炎俊は翰鷹皇子の怒気を正面から受けて、全く怯んでいない。自身よりも幾らか上背のある──女にしてはこいつは長身の部類に入る──兄に対して、いっそ傲然と胸を張って、笑う。演技も入っているのだとしても、翰鷹皇子を怒らせ慌てさせるのが楽しくて仕方ないかのよう。
(ほどほどに、しておいてよね……!?)
完全に怒らせて逆上させては、佳燕の身まで危ういかもしれないのに。芝居が始まってしまった以上──というか、他所の宮の者の目がある以上、諫めることもできないのがもどかしかった。
「雪莉、安心するが良い。そなたに危険が及ぶことはない」
炎俊が朱華にちらりと目を向けて、不気味なほど優しい笑顔を見せてきたのも、多分翰鷹皇子に見せつける演技の一環だ。だから、ひんやりとして滑らかな指が頬を撫でるのを感じたところで、安心することなどできはしない。朱華の表情が強張っているのは、それはそれで筋書きに沿っているから問題ないはずだけど。
朱華が無言で佳燕と寄り添っているのを確かめてから、炎俊はまた翰鷹皇子に向き直った。芝居の本筋に戻るのだ。労わるように見えなくもない笑顔が、一瞬にして嘲りの色を帯びるのは良い役者だということなのかどうか。単に、兄皇子に喧嘩を売るのが本気で楽しいのではないかという気がしてならない。
「それに、兄上も安心なされよ。兄上の妃に手を出すことなど思いもよらぬ。私は雪莉の──私の妃のことしか考えていない。他の妃などいらぬのだ。兄上同様に、な」
「ならばなぜ……!」
とにかく──翰鷹皇子が、思った通りの反応を見せてくれているのは、絶対に良いことと捉えて良いはずだ。芝居だということをちゃんと覚えているのかどうか、炎俊の唇が、優美な三日月の形に笑みを作る。紅も刷いていないのに妙な艶やかさがあるそれが、見せ場の台詞を紡ぎ出す。
「どうでも良い女をひとり置いておけば、目くらましにはなるだろう」




