22.佳燕の真意
星黎宮に到着した佳燕は待っていた侍女の繍栄と感動の再会を果たした。
「ああ、佳燕様! よくぞご無事で……!」
「繍栄さんも。お叱りを受けてるんじゃないかと思って、気が気じゃなくて──」
輿の中、炎俊とずっと握り合っていたことですっかり汗ばんでしまった手を上衣で拭いながら、朱華は何とも言えない気分でふたりの抱擁を眺めていた。侍女を「さん」付けで呼んだのは、かつてはふたりして別の姫君に仕えていたという経緯から、だろうか。建前としての主従関係を忘れるくらい、佳燕の気も緩んだということなのだろう。
(まあ、それだけ心配していたのは本当なんでしょうけど……)
泣くほど心配だったなら、もう少しやりようがあったのではないか、とは、多分小狡い朱華だから思うことなのだ。皇子を遠慮なく怒鳴りつけて交渉することができる者は少ないはずだし。世間知らずの令嬢と、立場の弱い使用人では気を揉むだけで精一杯だったのだろう。と、いうことで終わりにしておくべきだ。それよりも、今考えるべきは佳燕の身の振り方だ。
「ともあれ、無事に白妃を保護することができて良かった。そなたには褒美をやらなければならぬな」
「もったいないお気遣いですけれど、まず蔡校尉に御心を向けて差し上げてくださいませ。それに、白妃様を匿ってくれていた者たちにも」
「そなたがあの者を気遣うとは意外なことだ。妃と配下の仲が深まるのは喜ぶべきこと」
「とても頼もしい方でしたわ。《時見》や《遠見》以外の《力》を目にするのは興味深いことでもございました」
種候補と勝手にお見合いめいたことをさせておいて、白々しいことを言うものだと思う。佳燕や繍栄がいる前で、朱華が怒鳴ることをできないのも分かってやっているだろうから腹が立つ。蔡弘毅は実直で好感が持てる人柄だったというのに、その主人がどうしてこうなのか。女を見る目がない蔡弘毅は気の毒なのかもしれない。それか、趣味が悪いのか。
「──しばらくは星黎宮に滞在なさると良い、義姉上。翰鷹兄上は話が通じ辛いのは私もよく存じ上げている。共に、良い言い訳を考えるのはいかがだろう?」
……とにかく、炎俊も事前に朱華が吹き込んでいた台詞を忘れずに言うくらいのことはできるから、成長はしているのだろうか。炎俊はとりあえず見た目は良いし、何より皇子という大層な肩書を持つ者が手を差し伸べるのは──特に佳燕たちのように心も立場も弱い者には──絶大な効果があるはずだ。
「四の君様……なんと慈悲深いお言葉を……」
ほら、佳燕は目を潤ませて平伏している。繍栄に至っては感激のあまり声も出せないような有様だ。これで、炎俊が皓華宮に対する人質にする、とでも宣言していたらどうなっていたことか。恐怖のあまり失神しかねないと思っていたから、あらかじめ掛ける言葉を指定しておいたのだ。佳燕を見つけ出したこと自体よりも、こちらの方がよほどのお手柄だと思うのだけど。多分、炎俊は分かってくれないだろうと思う。
「さあ、白妃様。お着替えを用意しておりますわ。よろしければ、湯浴みの準備も。どうぞ、塵とお疲れを掃ってくださいませ」
そして、仕上げは紫薇だ。おっとりとした笑顔はいつでも変わらず感じ良く、佳燕の警戒も解けるだろう。温かい湯や茶、甘い菓子が心身を癒すことは言うまでもない。だから、少なくとも佳燕の肉体の安全はこれで確保された。残る問題は、彼女の心と──それに、将来についてのものだ。
湯浴みを終えて、朱華の衣装を纏った佳燕は、見た目は皇子の妃の威厳と美しさを取り戻していた。使用人に交じって暮らした数日の間、手入れもままなかったであろう顔も髪も、紫薇と繍栄によって改めて磨き上げられて輝くばかり。ただ、表情は必ずしも装いに相応しいものではなかったかもしれない。昊耀の国に四人しかいない、次代の帝位を争う皇子、その中のひとりの寵愛を一心に受ける姫君にしては、佳燕の目には力がなく、不安げに室内のあちこちをさまよっている。正面に相対した炎俊を、真っ直ぐに見据えるのは畏れ多いとでも言うかのように。それか、これから何を言われるのかと恐れているかのように。
「兄弟の序列は重要だが、それ以上に我らは公正に競わねばならぬ。最も《力》と才に恵まれた者が帝位に就くことこそが、万民のためになるのだから」
佳燕を安心させようという意図は、多分絶対に思っていないのだろうけど──紫薇が淹れた茶を優雅な所作で口元に運びながら、炎俊は穏やかに微笑んだ。
「だから、私は若輩だからと兄上のお言葉に全て従うつもりはないのだ。自身の宮のことさえ儘ならぬ方に、昊耀の帝の位は重かろう」
「は、はあ……」
(お妃を人質に取って言うことを聞かせるのは、公正な競争なの……?)
佳燕が人心地ついたところで、今後の話をしようとした途端、これだ。佳燕の翰鷹皇子に対する想いは分からないけれど、仮にも夫君である方をあからさまに追い落とす前提で切り出されては、安心するどころではないだろう。
案の定、炎俊に応じる佳燕の声は細く震えていた。
「あの、翰鷹殿下は四の君様にどのようにお話されたのでしょうか。さぞ……お怒りだろうと、思うのですが」
「ああ、少なくとも義姉上に対してはお怒りでないから安心されると良い」
「少なくとも……?」
炎俊にそんなつもりはないのかもしれないけれど、思わせぶりな前置きに、佳燕の顔色が一層白くなる。翰鷹皇子は何かしらに対しては怒っていると告げているのも同然だから、当たり前だ。
「兄上は、義姉上の侍女たちに問い質すということをされなかったようだから。だから──白家が黒幕と信じておられる。そう、思い込みが激しく視野が狭いのも感心しかねるな」
「ああ……そのような……」
(もう、本題は三の君様の悪口じゃないでしょ……!)
佳燕の麗貌は青褪めて引き攣る一方で、茶菓を口に運ぶ余裕もないようだった。自身が姿を眩ませたことによる結果を全く予想していなかったはずもないし、全てこの方の行いが招いたことといえば、その通りではある。それでも、何の指針も示さずに怯えさせるようなことばかりを聞かせるのは、虐めているのと同じだと、朱華は思う。
「あの、佳燕様。多分、なのですけれど……白家は何も知らないかもしれませんわ。たまたま、他の姫君を皓華宮に差し上げようとして、それで……その、三の君様が邪推されたということですから」
事実を説明しようとすると、否応なく翰鷹皇子の悪口が混ざってしまうことに内心で頭を抱えながら、朱華は口を挟んだ。少しでも佳燕の怯えを取り除くことができれば、と思ったのだけど──小鳥か子兎を思わせる風情の方は、けれど少しも気が晴れたようには見えなかった。
「雪莉様。では、それでも長春君様は私以外の方を迎えてはくださらないのですね……」
「はい。ええと……ですから、ご寵愛ぶりは私の目にも明らかでしたから。だから……少なくともお怒りが佳燕様に及ぶことについてはご心配無用だと思いますわ……」
「ああ……いっそ、愛想を尽かしていただいた方がどれほど良かったか……」
皓華宮での繍栄を思わせる展開だった。皇子に対しては話しづらくても、朱華なら、という思いが佳燕にも働いたらしい。急に佳燕の目が潤んだので、朱華は少なからず動揺した。
「あの、でも……失礼、なのかもしれないのですけれど、佳燕様の《力》というか《目》だと、天遊林の守りが必要……なのではないのですか? 婢女たちの居場所でも魘されておいでだったと──」
「はい。お恥ずかしいことですが……何を視て何を視ずにいるか、私は自分の力で御することができないのです。だから──皓華宮でも白家でも、家の片隅に置いてさえいただければ良いのですが……。あの、それも図々しいとは存じているのですが」
「白家にお戻りになることも考えていらっしゃったのですか。あの、できるのでしょうか……?」
(なんで私が話しているのかしら……)
困惑しながら炎俊の様子を窺うと、彼女は素知らぬ顔で菓子を口に運んでいた。面倒なことは任せた、と言いたげな気配を全身から発している。煮え切らない、かつ弱気な方から心の裡を聞き出すような機微は、確かに炎俊には期待できないのだけれど。でも、朱華だって決して向いている訳ではないと思うのに。
佳燕と同じ立場らしい紫薇なら、と思って視線を投げても、帰ってくるのは穏やかな励ますような微笑みだけ。侍女として、妃たちの会話に割って入るなどできないということなのだろうか。確かに、繍栄も置物のように気配を消しているようだけど。これは、他所の宮のやることに手を出す訳にはいかないとか、炎俊の目に留まりたくないという一心の表れにも見えるけれど。
朱華の内心に気付く余裕などないのだろう、佳燕はおどおどと目を泳がせながら続けている。
「長春君様とのご縁をいただいたことで、白家からは褒めていただきました。それは……軽率なことをしてはしまいましたが。もしも、長春君様が私に愛想を尽かせて、他の方を受け入れてくださったなら……それなら、白家としては最も良い結果ということになりませんでしょうか……」
「はあ……白家としてということでしたら、まあ、確かに……」
結局のところ、佳燕でさえも翰鷹皇子の想いを信用してはいなかったらしい。一時姿を消せば目が覚めるだろうと、その程度の気まぐれだと見積もっていたのだ。まあ、朱華でもそう思うだろうとは思う。皇族などというものは高慢で下々の区別など大してついていないだろうとか、女は見目が美しければそれで良いのだろうとか、身分低い女としてはその程度の考えしか抱かないものだとしても仕方ない。
ただ──実際に同じ宮で同じ寝台で寝起きすれば多少は印象は変わるものではないだろうか。朱華自身について言えば、炎俊の言動に苛立ち呆れ腹を立てることが多いけれど、見直したところもないではない。
(一応、夫婦なんだし……?)
朱華は、何よりもまず佳燕に確かめるべきことがあったのに気付いて声を低めた。別に本人に聞こえるはずはないけれど、こういう時は小さな声で話すものだ。
「あの、佳燕様は三の君様をどのように思われていらっしゃるのでしょうか」
それを確かめないことには、佳燕の身の振り方を決めることもできないだろう。




