19.秘密を知る者同士
陽光に木々の緑が煌めく和やかな庭園──その片隅で、朱華は蔡弘毅に薄暗く生臭い痴情の縺れと権力争いの話を聞かせた。つまりは、妃である佳燕に逃げられた翰鷹皇子と、彼と白家の意見の相違について。呪に守られている場所ではないけれど、今、この瞬間を狙って《時見》が《遠見》をして、しかも侍女と武官の内緒話を、唇を読んでまで盗み聞きしようという者もいないだろう。多分。
より心配なのは、皓華宮の内々のことを蔡弘毅に教えて良いのか、ということだけど、これももう仕方ない。協力を仰ぐのに事情を打ち明けない訳にはいかないし、そもそもこの男はもっと重要な秘密──炎俊皇子が女だということ──を知っている。秘密を守れる者だと信じないことには、何ひとつ話が進まないのだ。
「それは……尊い方にも色々あるのですね……」
話の間、何度も首を傾げたり目を瞠ったりしていた蔡弘毅は、全てを聞き終えると呟いた。思うところは色々あったらしいけれど、とりあえずは無難な総括に留めたらしい。大筋では全く同意するし、本心をあれこれと述べなかったのは賢明なのだろう。だから朱華もにこりと微笑んでみせた。
「本当に。私は、お慕いできる君にお仕えできて幸いでしたわ」
上のふたりの皇子たちとはまだ会っていないけれど、炎俊は翰鷹皇子に比べれば遥かに話が通じる。お互いに秘密を握っているから、遠慮なく怒鳴って叱ることができるし、分からないことも直截に尋ねることができる。陶家が選んだ相手が炎俊だったのは、今となっては僥倖だった。
「殿下にお仕えする者として、大変嬉しく心強いお言葉です……」
「私も。長春君様のお召しに、直ちに応じてくださる方がいるのは心強いですわ、蔡校尉」
蔡弘毅の武骨な頬が朱に染まるのを見て、朱華の唇は思わず綻んだ。炎俊を慕う、と。何気ないというか、朱華の立場として当然のこととして使った表現から、いったい何を想像したのだろう。想う主の傍にいる朱華に対して、嫉妬や敵愾心を抱いているのでないならやりやすくて良いけれど。
(なんだか初心で、可愛い感じの人よねえ)
閨を共にする相手が蔡弘毅になりそうだ、というのも──相手の感情を度外視すれば──朱華にとっては幸運だった。炎俊と翰鷹皇子を見た後では、他の皇族という存在にもさほど期待はできそうにないから。
朱華は、ぐるりと四方を見渡した。尋常の視界に映るのは、ひたすら木々や草花だけ。けれど、《遠見》を使えば、東屋や官舎、使用人の住まいと思しき建物があるのも見て取れる。そのいずれかに、佳燕が身を寄せていることもあるだろうか。ひとつひとつ、虱潰しに見ていかなければ。
《遠見》に神経を集中すると、目の前にいる蔡弘毅の姿は対照的にぼんやりと遠ざかる。近くにいるのに遠くにいるような、紗の帳で隔てられているような。それでも、もちろん声は届くから、上の空になりながらも朱華は改めて念を押す。
「とにかく──《遠見》を行っている間は、私は無防備になってしまいます。不審な人が来ないか、逆に見咎められるようなことはないか、見ていてくださいますようお願いいたします」
「あの、白妃を見つけたら星黎宮に保護されるおつもりとのことですが──それでは、あの、炎俊殿下が……!」
──が、蔡弘毅の真摯な声に、木立の向こうに合わせようとした焦点を、眼前へと引き戻される。瞬きをひとつしてから改めて目の前の光景を見ると、蔡弘毅はひどく不安げに眉を寄せていた。皓華宮の妃を招き入れることで、炎俊が女だと露見しないかどうかを恐れているのだ。ふたりきりのこの状況でもなお、そうとはっきり口にするのを避けるかのような彼の真面目さあるいは慎重さは、多分好ましいものなのだろう。
相手の懸念を解くためにも、朱華はいったん《遠見》を断念して、蔡弘毅に向き合うことにした。
「ええ……あの方の秘密は、何としても守らなければなりませんね」
「本当に、大丈夫なのですか? 殿下は、もちろん考えていらっしゃるのでしょうが……」
佳燕を星黎宮に匿うのは、朱華としては苦肉の策の進言だった。翰鷹皇子が望むまま、あの方をすぐに皓華宮に返しては何の解決にもならない。佳燕の悩みは解けないままで、きっと遠からずまた限界を迎えるだろう。それはあまりに気の毒だけど、同時に炎俊にとってはどうでも良いことでもある。だから、朱華はどうにかして奴の気を惹けるような理屈を考えなければならなかった。つまり──
「長春君様は、何よりも兄君への嫌がらせをしたいとお考えのようですわね」
「嫌がらせ、ですか……」
佳燕の身柄を星黎宮に留め置けば、翰鷹皇子に対しての人質になる。炎俊の目的は、第一に兄皇子を蹴落とすことだから、何も馬鹿正直に望みを叶えてやらなくても良いという訳だ。むしろ、目的を達成した上で嫌がらせができるなら、その方が良いとあの女は考えたらしい。朱華の提案に頷いた時、炎俊は珍しいほど楽しそうな笑顔を纏っていた。
「お妃が弟君の宮に囲われるとなれば、三の君様も穏やかではないでしょうから。もちろん無用のご心配なのですけれど」
「……はい」
炎俊は女なのだから、佳燕の貞操が脅かされることはないのだ。これで奴が男だったら、朱華もこんな提案はできなかった。佳燕が安心して過ごせるように翰鷹皇子を遠ざけつつ、呪で守られた居場所を提供しつつ、皓華宮や白家との折り合いがつくまで匿うことができれば──少なくとも、多少の時間稼ぎにはなるのではないか、と思いたかった。
「ですが、それでは殿下に皓華宮の御方のお怒りが向くのでは……?」
「長春君様は私だけ、と仰ってくださっているので、それで納得していただくしかありませんわね。実際、ずっと一緒にお休みさせていただきますし」
佳燕を翰鷹皇子のもとに返すのはあまりに寝覚めが悪いから、この際、寝室を分ける案が当分延びるのも我慢しよう。朱華が寵愛されているという噂を補強することができるのは良いし、着替えも寝室で済ませれば、秘密が露見する恐れも少なくなるはずだから。
(問題は三の君様だけどさ……)
この案が実現した時点で、炎俊は兄皇子に喧嘩を売ることになるのは間違いない。炎俊は、邪推だ、ということで押し通すつもりのようだけど。常識的に考えて、弟が兄の妃に手を出すはずがない、ということで。世間の者が見れば邪推しかしようがない状況にはなるのだろうけど、妃に逃げられたという醜聞を、翰鷹皇子は公にできないだろう。白家の手前もあることだし。
(醜聞だと……分かってくだされば良いんだけどね)
皇族という存在が自らを省みて改めることができるのか、朱華としては甚だ不安に思っている。愛したはずの女に嫌われて逃げられるなど、並の男でも屈辱と捉えてもおかしくないのだ。翰鷹皇子が、佳燕の想いを受け止めることができるのか、双方にとって幸せな結果に至ることができるのか──最悪の場合、星黎宮と皓華宮は大々的に争うことになる。その場合は佳燕も星黎宮に留まり続けて──そうなったら、雪莉を陶家から助け出すこともできなくなってしまう。炎俊だけでなく、朱華も人には言えない秘密を抱えているのだから。
「陶妃様がいてくださって、殿下もお心強いことでしょう」
「そうだと良いのですが……」
蔡弘毅の言葉は、お世辞を含んだただの相槌だろうか。それとも、紫薇のように、朱華が炎俊の人格に何らかの影響を及ぼすことを期待しているのだろうか。朱華だってただの小娘なのだから、過度の期待を寄せられても困るのだけど。
(あ、でも、佳燕様が皓華宮に帰ったら、この人と寝なきゃいけないかもしれないのかあ)
佳燕を匿っているうちは、さすがに夫以外の男を閨に引き込むことなどできないだろうから。だから──朱華にとっても、猶予期間をもらえたということになるのかもしれない。炎俊がそこまで気を遣ってくれたなんて、絶対にないだろうけど。
「まあ、全ては白妃様次第ですから。意外と、宮にお戻りになりたくてお困りなのかもしれません」
気休めなのは百も承知で、朱華は一番簡単に話が済む場合を挙げてみた。飛び出してはみたものの、迎えが来なくて佳燕も困っているとか──そんな気が抜けるような顛末であれば、どれほど良いか。
(まずは、あの方を見つけないと何も始まらない……!)
蔡弘毅も、もちろん納得はほど遠いのだろうけど、とりあえず今はこれ以上の疑問はないようだった。唇を結んで、見守り身構える体勢になった彼を確認してから、朱華は今度こそ《遠見》の視界へと意識を集中させた。




