17.提案
「あのさ……皓華宮で、佳燕様が出ていくところや捕まるところは視えなかった、でしょ?」
「……そうだ」
佳燕が実家である白家の企みによって連れ去られた、と。前提を覆されて自失した様子の炎俊を慮って、朱華はおずおずと前置きを置いた。幸か不幸か炎俊は即座に立ち直って、憤りも露わに身を乗り出してきたのだけれど。
「白妃の部屋も兄上の部屋も念入りに視たのだ。お陰で見たくもないものをじっくりと視る羽目になった。毎日毎日、似たようなことをしているから六日前を視分けるのも厄介だったし……」
(ああ……《時見》ってそういう難しさもあるのか……)
非常に珍しいことに、愚痴めいたことをこぼす炎俊を前に、朱華はまたひとつ《時見》の不自由さに気付いた。同じ人々が同じ建物にいるところを視るのだから、どこからどこまでが何日なのか、別の日の出来事を視分けるのは難しいことに違いない。
(あれ、っていうか、今回のことに限らず、よね? 天災とか反乱とか……どうやって日付を特定するんだろ?)
いつ嵐が起きるか雪が降るか。いつ挙兵や襲撃があるか。《時見》については目立った地形を目印にできるそうだし、炎俊は麾下たちと月や日によって異なる色と意匠の旗を掲げることも進めているとか。でも、それはつまり現状ではそういう工夫はないということだし、あったところで、警戒すべき有事は目印の近くで起きてくれるとも限らない。
「白妃はどのようにして宮を出たのだ。宮の造りを知り尽くしていたところで、全く姿を見せずにすり抜けるのは難しいと思うが。しかも、白妃ひとりで、なのだろうに」
「あ、あのね、そこがまず間違いなの」
とはいえ、今は皓華宮のことに専心しなければならない。《時見》や《遠見》の実践上の事情については、改めて聞く機会はこれからいくらでもあるはずだった。
「佳燕様がいなくなった日は、おひとりで皓華宮に戻られたということだったでしょ?」
『常ならば、行きかえりの輿も長春君様とご同乗なさるものでした』
繍栄という老侍女の弱り切った声を脳裏に蘇らせながら、朱華はその言葉をなぞった。
「その途中で、輿を止めさせて庭を眺められたということなの」
『皓華宮に戻れば、白家からの書簡が届いております。長春君様に元々仕える方たちは無視しろといい、白家から従う者たちは、長春君様への取次ぎを、と突きます』
佳燕が両者の板挟みになって苦悩していた、という推測は当たっている。というか、外れようもない。朱華が──薄々恐れてはいたけれど──思い至らなかったのは、あの方にとって最大の悩みの種は誰だったのか、というところだった。
「貴重なひとりきりの時間だったから、広々としたところで清々しい空気を味わいたかったんでしょうね」
『そして、夜になれば長春君様が戻られるのです。……ご寵愛は、本当に、大変に、有難いことではあるのですが……』
でも、翰鷹皇子は決して佳燕の話に本当の意味では耳を傾けない。あの方の他に妃を寄せ付けず、決して乱暴もせず、甘えては慰めを求める──それはそれで、得難い僥倖で、至上の幸福と思う女も多いのだろうけど。
《時見》の《力》を思うように扱えない佳燕にとっても、皓華宮は絶好の隠れ処であり、翰鷹皇子はまたとない庇護者のはずだった。でも、それらの事情を踏まえた上でさえ、ひたすら囲い込まれて何ひとつ意思が伝わらない日々は苦痛でしかなくなっていた、ということなのだろう。翰鷹皇子が白家の申し出に頷いてさえくれれば、佳燕の悩みの粗方は解決するというのに、当の皇子がまったく聞く耳を持ってくれないのだ。そんな日々が続けば、心の弱い方なら折れてしまう……のだろうか。
「──だから、逃げた……と?」
「……そう。庭を眺めるうちに、不意に涙ぐまれたそうで」
記憶の中の繍栄と同時に、朱華は溜息を吐いた。炎俊の声がやけに低く、目つきが険しいのを気にしながら。ことあるごとに炎俊を怒鳴っては叱る彼女にとっては、佳燕の思いも繍栄の弱気も今ひとつ理解できていないのだ。だから、朱華に怖い顔をされても困る。こいつはいったい何が気に入らないのか──心当たりはいくつもあるけれど、とりあえず黙って聞いていて欲しい。
『皓華宮には戻りたくない、長春君様のお顔を見たくないと仰って泣くばかりで──私どもがどれほどお慰めしても、聞いてくださいませんでした』
石畳で整えられた回廊を外れて、庭に足を踏み入れていた佳燕は、侍女たちが止めるのも聞かずに庭の奥へと駆け出した。深窓の令嬢、それも豪奢な衣装を纏っていたから当然すぐに追いつかれたけれど。幼児が駄々を捏ねるようにその場に座り込んで首を振る佳燕をまた輿に乗せることは、繍栄たちにはどうしてもできなかったということだった。
『佳燕様のお悩みは、私どももよく存じておりましたし……。これで長春君様もお耳を傾けてくださるのでは、お妃を増やしてくださるのでは、と考えてしまったのでございます』
佳燕の不在は、その夜のうちにも翰鷹皇子の知るところになる。皇子はすぐに佳燕を迎えに行くだろうし、そこまで思いつめた理由もさすがに問い質すことだろう。だから、佳燕がひとりきりになるのもほんの数刻のこと、ひとりで頭を冷やすには十分な時間だろうと、ここまでの大事にはならないだろうと繍栄たちは考えた──というか、考えようとしたのだ。でも──
「でも、三の君様は真っ先に白家を疑って抗議したでしょう。白家も知らないことだから対応がかみ合わなくて、それで余計にお怒りになって──」
「輿を担いだ宦官どもは、白妃は確かに皓華宮に戻ったと述べたとか。その者たちはどのように言い包めたのだ」
「彼らは、ずっと平伏したままだもの。輿に乗ったのが佳燕様か身代わりの侍女なのかは分からないでしょ。侍女たちだってそれっぽい──佳燕様がいるみたいなやり取りくらいはするわ。それに、三の君様のいないところで佳燕様が愚痴をこぼすのはいつものことだったから、証言するほどのこととは思わない」
「そのような、愚かな……!」
炎俊の呟きに、朱華も全面的に同意する。繍栄にも怒鳴った。皓華宮の真っ只中でのこと、他の使用人たちに聞きつけられないよう、声を抑えるのには苦労した。
「三の君様が怖かったんだってさ。皇子サマのお怒りを買ったら何があるか分からない。幸い、矛先は白家に向かっているし。ちょっとおかしいな、って思った人もいるかもしれないけど、口を噤んだのよ」
『長春君様は、私ども白家から来た者が宮から出ないように取り図られました。白家と通じることがないように、と。だから、どなたにお伝えすることもできませんで……』
繍栄は泣いて訴えたけれど、同情する気にはなれなかった。あの侍女は心から佳燕の身を案じ、哀れんで思い悩んで、けれど何もしなかった。できなかった、と。本人ならば言うのだろうけど。皇子の勘気を恐れるのも、使用人風情には何もできないと思うのも──仕方ないのかどうか、朱華には分からない。
『おひとりで、何日も……佳燕様はどれほどお心細くなさっているか……! 皇宮の建物の中ならしらず、庭までは呪も施されておりませんのに……!』
寒さで凍えるような季節ではないし、庭園には東屋もある。池には清らかな水がさざめいているし、使用人に助けを求めれば屋根のある寝床や食事も得られるだろう。その者たちにとっては迷惑至極だろうし、翰鷹皇子や白家に伝えらえたらそれはそれで困るのだろうけど。
朱華にとっては、《時見》の暴走以外はさほど案じるべき状況とは思えない。ただし、その立場にあるのが自分なら、という但し書きがつく。佳燕や繍栄の弱気も無力も優柔不断も、彼女には今ひとつ理解できないのだ。
(三の君様が特に話が通じないから? 妃として教育されてないってそういうことなの?)
怒りによってか呆れによってか、呟いたきり絶句する炎俊を、朱華はしみじみと眺めた。
話が通じ辛いのは炎俊も同じだ。でも、交渉の余地はある。とはいえ、そこで仮にも皇子を怒鳴れてしまうのは、お互いに秘密を抱えた関係が特別だからか、偽の姫に過ぎない無作法さがそうさせるのか。……とにかく、佳燕は朱華にとっては想像できないほどか弱いらしい、とだけ得心しなければならない。
だから──ここからが、また面倒なことになる。
「……だが、これで白妃の居場所は知れたということだな? 皓華宮の侍女たちも、そもそも知っていたのだろうが」
「そうね。三の君様が宮を閉ざしたりしなかったら、自分たちで迎えに行っていたんでしょうね」
「あてもなく白家に所縁の地を探すよりはよほど話が早い。今からでも白妃を捕らえてしまえば良いのだな」
(ああ、やっぱり……!)
捕らえる、という表現ひとつで、炎俊の思いは知れる。こいつは、ただただ面倒なことをさっさと片付けてしまいたいとしか思っていないのだ。問題の根本を理解しているのかいないのか、自分には関係ないことと思っているのか。佳燕さえ戻れば義理は果たしたとは、朱華にはとても思えないのに。
「でも……佳燕様はまた同じことをなさるかもよ? それじゃ三の君様は満足なさらないわ」
「事情が分かれば、兄上もあちこち連れ回すようなことはなさるまい。ご自身の妃なのだからきちんと閉まっておいていただけば良い」
「ねえ、でもあの方よ? ずっと閉じ込められるのはお気の毒じゃない?」
「妃とはそういうものだろう。政の助言もできぬならなおさらのこと、黙って夫に仕えるものだ」
(そんなことを思ってるんじゃないかと思った!)
佳燕が自害するかも、などと言ってもこいつには無駄だろう。それを見張るのが夫の役目だから、で終わらせて。実際、翰鷹皇子だって二度と油断はしないだろう。でも……多分、佳燕がそこまで思い詰めていた理由を解決しようとは思わないのだ。寵愛は施すものであって、感謝して受け取られて当然なのだ。あの方はそれを疑ったことはないのだろう。
「でも……どうせなら、佳燕様には望んで戻っていただいた方が良いわ。その方が三の君様に恩を売れるもの」
「それはできることなのか? 兄上が変わることはないだろう。あの通りの方だから」
自分のことは棚に上げて、炎俊はもっともらしく告げる。実際もっともなことだから仕方ないけれど。佳燕を連れ戻した後に何が起きたとしても、皓華宮の問題であって朱華たちには何の非もない。でも、それではあまりにも後味が悪い。
皓華宮で体調を損ねたフリをしながら、朱華はのたうち回る思いで考えたのだ。どうすれば、佳燕を助けられるか。炎俊に面倒を納得させるか。まあ、結局はやってみなければ分からない、という結論に落ち着いたのだけど。
(まずは、こいつがどんな反応をするか、よね……)
「そうよね」
「だろう」
朱華が頷いたのを見て、炎俊の表情がわずかに緩んだ。また訳の分からない難癖をつけられずに済んで安心したなら、まだ早い。朱華の本題は、まだこれからなのだから。
「じゃあ、逆にっていうか──佳燕様を星黎宮に隠してしまうのは? 三の君様に恩を売るのと、人質を取って引き下がっていただくのと、どっちが良いかしら?」
なるべくにこやかに、さりげなく。それでも不穏な単語を織り交ぜて朱華が首を傾げると、炎俊の目がわずかに見開かれた。




