6.翰鷹皇子
炎俊が予想した通り、その日のうちに届いた翰鷹皇子からの返信には、明後日に星黎宮を訪ねる、とあった。つまり、可能な限り早く押し掛けたい、ということだ。もっとも、返事を待つまでもなく朱華と紫薇もそのつもりで高貴な客を迎える支度を整え始めていたから、やることには何も変わりは生じなかった。予定が確定したというだけだ。場所は、先日炎俊と歩いた睡蓮の池が見える部屋で。菓子も茶も、皇族を迎えるのに相応しい質のものを用意した。翰鷹皇子の好みについては、炎俊も知らないというから不安があるといえばあるのだけれど。まあ、粗悪なものを出すのでないなら大丈夫だと思いたい。
そして迎えた当日、紫薇に髪を任せながら、朱華はふと呟いた。
「ね、紫薇。この宮に侍女が増えたりしたら嫌かしら? 陶家から呼び寄せるかもしれないんだけど」
「ああ、ご実家もご心配なさっているでしょうね。長春君様に共に仕えてくれる方が増えるのは歓迎ですわ」
「……貴女の仕事を取ったり、邪魔したりってことにはならないはずよ。とても優しい人なの」
あっさりと頷く紫薇に安堵しつつ、朱華は念押しのように付け足してみる。星黎宮に雪莉を呼び寄せることについて、炎俊はあっさりと承諾してくれたけど、侍女に対しても根回しが必要なことに気づいて心配になったのだ。この娘は炎俊に仕えて長いようだから、もしかしたら新参者の存在を快く思わないのではないかと心配だったのだ。妃として迎えられた朱華はまだしも、同格の侍女が増えるのならなおのことだ。
「陶妃様が仰るのでしたら、きっとそうなのでしょう。お会いできるのを楽しみにしておりますわ」
いつものことだけど、紫薇は優しく大らかだ。炎俊にとっても朱華にとっても姉のようにさえ感じられる。あまりに出来すぎているから、その言葉を信じ込んで良いのか不安になってしまうほどだ。皇子たちと妃たちが争う天遊林で、それぞれの宮の侍女たちは一致団結しているものなのだろうか。主たちの寵を巡って争うことも、ないとは言えないかもしれない。
「貴女はいつから我が君様にお仕えしてるの? 大分、打ち解けているようだけど」
鎌をかけるつもりでもないけれど、朱華は前から気になっていたことを尋ねてみることにした。雪莉を星黎宮に迎えるにあたって、先住の者がどういう経緯でやって来たのか、どう馴染んだのかを聞いておくのは悪いことではないはずだ。特に紫薇は、あの炎俊も何かと言うことを聞くようだし。あいつを上手くあしらう秘訣のようなものがあるなら、朱華としてもぜひ知りたい。
試すような推し量るような朱華の意図には、気づいているのかいないのか。紫薇は穏やかな笑顔を浮かべたまま、彼女の髪を梳いている。
「そうですわね、劉貴妃様がご存命の頃ですから、もう十年近くになりますわね。私の父母も劉家の片隅に名を連ねておりましたから、その縁で――十になるかどうかの頃に召していただいたかと存じます」
「……あいつの母君って亡くなってたの!? あと、そんな小さい頃から!?」
「陶妃様、どうか動かないでくださいませ。これからお化粧もしなければいけないのですし」
紫薇の言葉は、どこを取っても驚くべきことばかり。だから大人しく座っていることなどできなくて、腰を浮かせて後ろを振り向いた朱華を、紫薇はおっとりと宥めて首を前に向けさせた。目も口もぽかんと開けた自分の間抜けな顔を鏡に見ながら、朱華は呆然と呟いた。
「だって……知らないことばかりで……」
「劉家は《時見》で名高い家ですから。貴妃様は、亡くなられる前に後々のことを細かに視て、書付を遺されていたそうです」
「そうだったの……」
思えば、仮にも嫁の身としては皇子の母后に挨拶を、とは真っ先に考えるべきことだった。陶家の誰もそれを言わず、炎俊も口にしなかったということは、察するべきだったのかもしれない。
それに、母君がいないことが炎俊のあの性格を醸したのだろうか、とも思う。母君との死別が何年前のことかは分からないけど、生身の肉親に育てられるのではなく、書付とやらに頼って天遊林で生きてきたのだとしたら。理屈でしか物事を考えられなくなったのも道理だし、その状況なら紫薇を頼り信頼するのも自然なことだろう。
(もう少し、常識とかを教えておいて欲しかったけど……!)
ならば、炎俊の性格がああなのは紫薇にも責任があるのかもしれない。一体どう接したらああなったのか思うと、ひと言どころではなく、言いたいことはあるけれど――でも、今更遅いのだろう。仕える者の立場で、皇族に諫言するのも難しいのだろうし。だから、朱華は気持ちを切り替えて、また別の疑問を問うことにした。
「紫薇も、《時見》なの? ここに仕えるには《力》を持っていた方が良いのかしら」
「長春君様はもちろん、お妃様方には及ぶべくもない程度ではございますが。でも、天遊林から出ることもありませんから、入ってしまえばさほど関係はございませんね」
「そうかしら?」
雪莉に《力》がないことを今言っても良いのかどうか。迷った末に、朱華はまだ黙っておくことにした。紫薇がそれを理由に雪莉を虐めるなどとは思わないし、そもそも宮の中では《力》を振るうことはできないのも確かなのだけど。
「はい。やはり大切なのは人柄とか……気の遣い方、ではないでしょうか」
「そう……なんでしょうねえ」
人柄という意味では、雪莉は文句なく優しい。気遣いについても、普通の意味なら申し分ないはず。ただ、紫薇が言うのはそれだけではないだろう。天遊林で生き抜くためには、虚実を巧みに使い分ける狡猾さも必要なはず。紫薇からして、どこまで本当のことを言っているのか信用しきれないこともある。
(雪莉様……天遊林にお呼びして、大丈夫かしら……)
不安の種は尽きないけれど、雪莉を陶家に閉じ込められたままにするよりはずっと良いはず――と、信じるしかない。それに、少なくとも翰鷹皇子の用件とやらを解決しないとそちらの話を進めることはできないのだ。
だから朱華は、紫薇に髪や肌を委ねて、高貴の人に会うのに相応しい装いを整えることに専念した。
初めて顔を合わせた翰鷹皇子は、炎俊とはあまり似ていなかった。皓華宮の色は白だけど、さすがに白一色の装いという訳にはいかなかったのだろう、落ち着いた緑を基調に、白は衿や帯に差し色として使っている。大きく括れば整った品のある顔立ち、ということになるのだろうけど、翰鷹皇子は炎俊ほどには美しいとは感じない。炎俊については女が男装しているがゆえの妖しさがあるからでもあるだろうし、翰鷹皇子の方がやや凡庸な容貌とも表現できてしまえるのかもしれない。
とはいえ、翰鷹皇子にも陰はある。彼女や炎俊を見る目にぎらつきがあったり、頬も痩けていたりするような気がして、どこか焦燥した気配を感じるのだ。もちろん、彼の普段を知らない朱華の、勝手な主観でしかないし、妃に何かあったのではという推測がそう思わせてしまうだけなのかもしれないけれど。
「ご挨拶が遅れまして、大変申し訳ございませんでした。ご尊顔を拝謁する名誉を賜り、恐悦至極に存じます」
朱華が来客の姿を品定めするのも、《遠見》の視界を介してのことだった。彼女は実際には床に平伏して翰鷹皇子を迎えているのだから。本人を目の前にしての覗き視は、もちろん多少後ろめたくはあるけれど――初めて会う相手、それも、彼女たちに対して思うところがあるに決まっている相手と対するのに、《力》を使わないでいるのは愚かというものだろう。それに、どうせお互い様なのだ。
「立つが良い。弟の妻の顔を直に見たい」
「はい……」
親切なのか牽制なのかは分からないけれど、翰鷹皇子は朱華に促しながら、自身の力の一旦を明かしてくれた。この人も、少なくとも《遠見》の力を持っている。そのことを肝に銘じて、朱華は淑やかさを演じつつ立ち上がった。慎ましく目を伏せ――《遠見》の前では意味がないけど――衣装の袖で顔を隠すようにして。彼女が素を出して良いのは炎俊の前でだけ、翰鷹皇子の前では「陶家の雪莉姫」を演じ切らなければならない。
表向きはにこやかかつ和やかに、皇子ふたりは席に着いた。窓から見える花盛りの睡蓮も、紫薇が供した茶菓も、まずは及第点らしく、翰鷹皇子は型通りの賛辞をくれた。それから話題は、朱華に――というか、炎俊皇子の新しい妃に移る。本題に入る前の、導入ということだろうか。
「噂通りに美しい。そなたがいつまでも独り身なのは気懸かりだったが――待った甲斐があったということか、炎俊」
「そう。雪莉はまさに私が求めていた姫でした。出会えた幸運に感謝しているところです」
(こいつら、白々しいわね……)
半分とはいえ血の繋がった兄妹のやり取りに、朱華は内心で笑いを噛み殺すのに苦労した。
炎俊が朱華を選んだのは、秘密を守れる協力者が必要だったからというだけ。その秘密のことは知らないにしても、妃選びは即ち外戚、後ろ盾選びだと、翰鷹皇子も承知しているはず。美しさだけが決め手になることはあり得ないだろうに、ふたりとも知らない振りをしているのだ。
多分、炎俊も付き合っていられないと思ったのだろう。朱華が不気味に思うほどの愛想笑いを浮かべて、兄皇子に切り込んでいく。
「美しいといえば、兄上の妃も、でしょう。今日は白妃にお会いできなかったのは残念でした」
「佳燕か……」
「ええ。仲睦まじくていらっしゃるのが羨ましいと、雪莉も申しておりました。まさか、他の男に奪われる心配などなさっていないでしょうに」
羨ましいなどとは朱華は言った覚えがない。ただ、碧羅宮での佳燕の印象を改めて聞かれて、唯一の妃であることに親近感を持った、と答えたくらいで。勝手に発言を捏造されるのは面白くはないけれど、でも、これも炎俊なりの弁明なのだろうとは分かる。炎俊にも朱華にも、翰鷹皇子やその妃に対して含むものは何もないと、暗に伝えようとしているのだ。《時見》で皓華宮の変事に気づいていながら惚けるのも、何も知らないと言う布石として、なのだろう。
(これくらいで分かってもらえるとは思わないけどさ……)
あれほど急いで会いたがるくらいだから、翰鷹皇子の心象としては星黎宮が妃を害した犯人ということでほぼ決まっているのだろう。それでも少しは心を動かしてくれれば、と。朱華は祈る思いで翰鷹皇子の顔を窺っていたけれど――
「白々しいな、炎俊」
相手が唇を歪めた吐き捨てたのを聞いて、彼女はわずかな望みを諦めた。やはり、翰鷹皇子は糾弾するためにやって来たのだ。もちろん、炎俊とは疑いを晴らすのに全力を尽くそうとは話し合っているけれど。その段階に移る前には、状況を把握するためにも一通り罵詈雑言を受け止めなければならないのだろう。
「そなたのことだ。我が宮のことは、とうに視て大方の事情は察しているのだろう?」
(え……?)
溜息を堪えて、浴びせられる言葉を耐えようと構えていた朱華は、でも、思わず目を見開いて翰鷹皇子の顔を正面から見てしまった。高貴な相手に対して、無礼になってしまうのに。慌てて炎俊の方を向くけれど、夫も彼女を咎める余裕はないようだった。整った眉が寄せられて、驚きを露にしてしまっている。多分、こいつのことだから一生の不覚にもなるのだろうに。でも、それも無理はない。
翰鷹皇子のこの言い方は、変事があることを認めた上で、炎俊や朱華を責めるものではない。彼女たちの予測は半ば当たって半ば外れたことになる。そして、外れた方の半分がどこにどう向かうのか――ふたりして、全く準備できていないのだ。




