2.視えないもの
(さすがに、怒るかしら……?)
《時見》は役に立たないのではないか――あまりに直截に尋ねてしまったから、朱華は炎俊の顔色を窺った。昊耀の礎たる力を疑うのは、皇室に対するとんでもない非礼にも当たりかねないのではないだろうか。
「そうだな。少なくとも、未来を視ることについては制約も考慮すべき事項も多い」
でも、炎俊は驚くほどあっさりと頷いて朱華の疑問を肯定した。同時に紫薇に目配せすると、控えていた侍女は素早く動いて茶の川を描かれた哀れな卓を綺麗に拭き清めた。まるで、時の流れの別れ道をも全て視極めようとするとかいう《遠見》は、全て無駄でもあるかのように。
「その辺り、もっとちゃんと教えてよ。我が君に何ができて何ができないのか、知っておきたいわ」
「……分かった」
炎俊は少しだけ顔を顰めて不満めいた感情を見せたけれど、言葉には出さないことを学んでくれたようだった。朱華の怒鳴り声がうるさくて面倒なだけだろうけど、言葉を惜しまずしっかり説明してくれるようになってくれれば妃としては喜ばしい限りだ。
紫薇が冷めた茶を捨て、淹れ直してくれる。けれど炎俊は茶器を手で包み込んだだけで口には運ばず、香りと温もりだけを楽しむかのように目を細めた。未来だろうと地の果てだろうと《力》を使って視るのは疲れるものだ。この女が甘味を好むようなのも、それだけ目と神経を使っているのかもしれない。
(その分、人に対しては神経を使わないなら改めて欲しいけど……)
炎俊の《力》に対しては敬意を覚えつつ認めつつ、その人格については甚だ不安がある。でも、常に先読みを強いられる境遇ゆえなのだとしたら、哀れみも感じる。朱華の複雑な内心など、多分相手は全く頓着していないだろうけれど。
「《時見》が弱いのは、人の営みというか思惑が関わると、だな。自然の……天候や災害についてならば、まあ大きく揺らぐことはないのだが。川の喩えでいうなら、ひとりひとりの行動で容易に流れが変わってしまうということだ。例えば――盗みに遭うのを視て、倉に鍵を掛けて見張りを増やしたとしよう。しかし、それで難を逃れたら、時見が当たっていたのか単に用心が功を奏したのか見分けはつかない」
例えばいつ嵐が来るか、雪が降る頃は、などが分かれば民の暮らしには確かに助かるのだろう。朱華は《時見》に対する認識を少し改めた。彼女の《遠見》の使い方からして偏っていたらしいけど、《力》とは本来国を治め民を庇護するためのものだったはずだ。決して、陰謀や探り合いに使うためだけではなくて。
でも、炎俊の言うところの「人の営み」については、まだ疑問が尽きないと思う。《時見》は悪い未来を避けるためのもののはずだ。天が相手ならせいぜい備えを手厚くするくらいしかできないけれど、人が相手の場合は違う。凶事を予め見た上で、回避することこそ未来を見通す目的なのだろう。だから――未来は、変わるのだ。そして、変わってしまった後では《時見》が正しかったかどうかを検証するのは難しい気がする。
「――じゃあ、出鱈目を言って大騒ぎさせといて、『俺のお陰で無事に済んだ』みたいなことを言う奴って、いないの?」
我ながら小狡い考えだとは思ったけれど、朱華は訊かずにはいられなかった。《時見》はもちろん過去も視ることができるし、それこそ盗みとかの犯罪の取り調べに使われることがあるとも聞いている。それならばまだ不正をする余地は少ない気がするけれど、未来のことは、誰にも確かには分からない、ということではないのだろうか。
首を傾げる朱華に、炎俊はものすごく厭そうな顔をして唇を歪めた。吐き捨てる口調もかつてなく強く、間違えて苦いものを含んでしまったかのようだった。
「……掃いて捨てるほどいる。拾挙でも、《時見》を選り分けるのが一番面倒で難しい」
「拾挙での不正は死罪なんでしょ。偉い人たちを皆騙し通せると思うバカがそんなにいるんだ……?」
「愚者もいれば、本心から妄想を《時見》や《遠見》と信じ込んでいる者も少なからずいる。悪意がないなら安易に罰することもできないが――周囲に信じる者が増えた場合は、処罰せざるを得ないこともある」
炎俊の声には、何か深い嫌悪と疲弊が滲んでいるような気がした。拾挙の運営も、もしかしたら彼女の仕事の一端なのかもしれない。だから、あの蔡弘毅と出会うことになったのかも。そういう有益な出会いがあれば良いけれど、妄想に取り憑かれた人間の相手をするのは苦労するだろうな、というのは何となく分かった。
たとえ詐欺師や贋者が多く混ざっていたとしても、建前として《力》ある者には出自を問わず、広く門戸が開かれていることになっていたはず。天より賜った《力》が、地に零れているということなのだから。掬い上げて拾い集めるのが拾挙の意義だったはずだ。
「大変なのね……」
不覚にも炎俊に同情してしまって、朱華はしみじみと呟いた。
それに、百花園での姫君たちの態度も何となく腑に落ちてきた。大した《力》もないのに天遊林に送られた上に、勝手に朱華の《力》を低く見積もって笑っていた彼女たちが不思議でならなかったのだけど。夢や妄想と、《力》で視た像の区別がつかない者が結構多いとしたら、それを知っていたとしたら、ああいう態度にもなるのかもしれない。
とにかく、朱華の呟きで《時見》についての話は一段落したと炎俊は捉えたらしい。こと、という小さく澄んだ音と共に茶器が置かれ、背筋が正される。それに倣って、朱華も居住まいを正し、夫と真っ直ぐに向き合った。
「《時見》には制限も多い。だが、視えるものと視えないものを吟味すればある程度確かな推論を立てることは可能だ」
「視えないもの……? 皓華宮からのお招きについて……?」
《時見》によって視えないことは、起こらないことらしい。人の営みというやつが絡んだとしても起きないこと、とは――つまりは、関わる者の誰も望まないこと、やろうとしないこと、ということなのだろうか。その理由を考えるのは、確かに有益だろう。
「そう。……私がひとりで行く場合、そなたを伴う場合。星黎宮に翰鷹兄上を招く場合。そもそも誘いを断る場合――兄上と会う場面が視えない場合、とも言えるか。とにかく、どれも視るのに苦労はなかった。どれも、十分にあり得る未来と考えて良いだろう」
炎俊は軽く頷くと、また茫洋とした表情を見せた。《時見》や《遠見》で目の前にはないものを視る時の目だ。本当にその未来が視えないのかどうか、確かめているかのよう。
「じゃあ、できるならお断りした方が良いのかしら。お話は気になるけど……」
何が視えなかったのか、炎俊はまだ言わない。でも、懸念があって、かつ会わないことも可能なら、訳の分からない招きは断ってしまえば良いのではないかと思う。第三皇子の用件が何であれ、競争相手であるはずの炎俊にとって都合の良いことだとは期待できそうにないし。
今までに見知った炎俊の性格からしても、面倒なこと予想のつかないことは避けそうな気がしていたのだけど――でも、朱華の提案は夫の気に入るものではなかったらしい。あるいは、懸念しているのはその部分ではない、のだろうか。
「問題は兄上ではないと思う」
「え……?」
何を言い出すのか、と思ったけれど、炎俊もこの期に及んで勿体ぶることはなかった。むしろ、気になることを吐き出してしまいたいとでも言うかのように、身を乗り出して言葉を続ける。眉を顰めた整った顔が急に迫ってくるのは、いまだにどきりとさせられてしまう。
「どれほど目を凝らしても、白妃の姿が視えないのだ」
「白妃……。佳燕様ね」
炎俊の目に映る自身の姿を見ながら、朱華は呟いた。第三皇子からの遣いと聞いて、真っ先に思い出した方の名を。碧羅宮で会った妃たちのうち、ただひとり怖い、ではなく多少なりとも親しみを覚えた方だった。視えない、というのは、つまりあの方に会う未来は当分巡ってこない、ということだろうか。
「あの方のことが、心配なの?」
「皓華宮の奥に篭っているから、ということもあるだろうが。必ず兄上の供をしてくるとも限らないのだろうが。だが、ごく細い線としても視えないのは――ああ、わずかな可能性を私はそう認識しているのだが――少々、不審だ」
「男同士……っていうか、兄弟同士というか、皇子様同士のお話だから、っていうことじゃなくて……?」
朱華の勝手な感情だけど、あのおとなしげな方に権力争いは似つかわしくない気がする。皇子同士が争うにしても、妃はまた別のはずだ。妃がひとりしかいない皓華宮は、もしかしたら競争相手としては格下なのかもしれないし。何も好き好んで争わなくても、頭から敵視しなくても良いかもしれないのに――でも、朱華が理屈をつけようとしても、炎俊の顔色は晴れなかった。
「そうかもしれない。しかし、もっとすっきりとする説明がある」
多分、炎俊は朱華よりも遥かに天遊林のことを知っている。生れた時から性別を隠し通し、星黎宮を得るまでの苦労も謀も、彼女には量り知ることができない。だから、この女の言葉は信じるべきなのだろう、と思わされる。そしてだからこそ、嫌な予感がしてならなかった。どうせろくでもないことを聞かされるのだろう、と。でも、だからといって聞かないで済ませることもできないのだ。
難しい表情のまま、炎俊は唇を開いた。
「白妃は、皓華宮にいないのだ」




